マチュ・ピチュ-アルトマヨの森奮闘記

青年海外協力隊2022年7次隊として、林業・森林保全分野でペルーに派遣されました。クスコ州のマチュピチュ歴史保護区で森林保全活動をしていましたが、情勢悪化に伴いサン・マルティン州のアルトマヨの森保護区に任地変更となりました。自分が将来過去を振り返るための備忘録も兼ねて、日々の活動をボチボチ綴っていこうと思ってます。時々暑苦しい文章になるかもしれませんので、ご承知おきください。

“夢みたいなこの日を 千年に一回ぐらいの日を 永遠にしたいこの日々を そう今も想っているよ”

リオハに着任してから、残された任期のことも頭によぎったこともあって怒涛の勢いで、保護区内を見て回り、計画を策定し、少しずつ行動に移し始めてきました。3月中旬に着任してから約4ヵ月。本当に濃い時間を過ごし、長かったようにも感じるし、逆にあっと言う間に4ヵ月が過ぎたようにも思います。途中、約3週間の休暇もはさみ、クスコに数日、日本に2週間帰ることもできました。

アルトマヨ保護区内にあるオネルコチャ湖。観光資源の一つ。

今回はこの4ヵ月間で取り組んだことと、それらの取り組みの中で学び、感じたことを綴ろうと思います。この冒頭を読んでくださっている方は、少しばかり長い話にお付き合いください。活動の話はいらんわ、って方はⅠ~Ⅳの活動に関する内容は飛ばして、最後の方の「ようやく~」から始まる文章だけでも読んでもらえると嬉しいです。1年間ペルーで色んな人と出会ってきた中での自分の今の心情の部分にフォーカスしています。

JICAのペルー事務所で研修中の職員がリオハに一週間滞在したときに。心強い同僚。

まずは、赴任してすぐに保護区の現状を知るために色んなエリアに足を運びました。その中で自分のリソースをどういった活動にベットしていくのかについての考えをまとめてみようと思います。主に取り組む活動項目3つ+個人的に取り組みたいこと1つの構成で綴るので、興味のある所だけでも目を通していただけると嬉しいです。

着任して初めの1ヵ月はホテルで滞在しながら家探しをしていたが、5月からは家が決まって生活も落ち着いてきた。



 

 

Ⅰ. 保護区内の森林調査
どこのエリアもコーヒーで生計を立てている農家が多く、また彼らは原生種の木を農園に植えてアグロフォレストリ―(森林内でコーヒーを栽培する手法)を実現していました。農園に植えられた木のほとんどは、配属先とその協働NGOが技術支援をしている苗代で育苗されたもので、アグロフォレストリーの技術的なサポートに深く関わっていくことは”林業・森林保全分野”の青年海外協力隊員としては必至だと感じました。

パークレンジャーの同僚と植林した木に施肥を行っている。

サン・マルティン州は森林地帯が多いにもかかわらず、森林科学部を持つ大学は1校も存在せず、大学卒の同僚も大抵は環境工学生態学の学部出身の方が多いです。同僚の半数以上がサン・マルティン州出身で、それらの学部出身の同僚は林学はわかるものの、林学分野にめっぽう強いという方はいなかったため、森林の調査などもほとんど行われておらず蓄積された情報に限りがありました。

同僚が実施している調査のお手伝い。保護区内の昆虫生態の調査を行っている。

コーヒー農園でもいろんな原生樹種が植えられていて、この農園の生態系システムをコントロールしていくためにも調査が必要であると配属先も考えていたため、まず手始めに代表的な原生樹種(特にコーヒー農園において肥料木やシェードツリーとなる樹種や果実が保護区内の動物の餌となるような樹種)のフェノロジー(どの季節に花を咲かせ、果実をつけるかなど)を年間を通してモニタリングすることにしました。

アルトマヨの森の代表的な自生種Cedro(センダン科ケドレラ属の植物)

18万2千ha(愛知県の東三河地方とほぼ同じ面積)の広さを有し、車道のない道がほとんどのアルトマヨの森保護区全域で定点モニタリングをするのはかなり無理があるため、それぞれ森の北側と南側に位置し、また配属先が所有する監視所(パークレンジャーが常駐し、寝泊まりもできる)が近く、どちらも標高が1,100~1,300mと同程度であるフアン・べラスコ集落とヌエバ・セランディア集落近くの原生林を調査地として選定しました。サン・マルティン国立大学の生態系学部で林学のコースを担当している大学教授にアドバイスをしていただき、彼の助言をもとにまずは各樹種3個体ずつで定点モニタリングする樹種を選び、それぞれ属レベル種レベルまでの樹種同定を行いました。それぞれ調査樹種は、

-フアン・べラスコ集落 -
①“Chope”
Gustavia augusta - Lecythidaceae
ガリバナ科グスタフィア属
②“Cedrón”
樹種同定未完
③”Sangre de grado”
Croton lechleri - Euphorbiaceae
トウダイグサ科ハズ属
④”Caraña”
Dacryodes sp. - Burseraceae
カンラン科ダクリオデス属
⑤”Cedro blanco”
Cedrela sp. - Meliaceae
センダン科ケドレラ属
⑥”Tornillo”
Cedrelinga cateniformis Ducke - Fabaceae
マメ科ケドレリンガ属
⑦”Meto huayo”
Caryodendron orinocense H. Karst. - Euphorbiaceae
トウダイグサ科カリオデンドロン属

-ヌエバ・セランディア集落 -
⑧”Huarumbo”
Cecropia sp. - Urticaceae
イラクサ科セクロピア
⑨”Eritrina”
Erythrina sp. - Fabaceae
マメ科デイゴ
⑩”Moena”
Aniba sp. - Lauraceae
クスノキ科アニバ属
⑪”Cedro rojo”
Cedrela odrata - Meliaceae
センダン科ケドレラ属
⑫”Quillosisa”
Vochysia sp. - Vochysiaceae
ウォキシア科ウォキシア属

の計12種(アルトマヨの森の原生種)で、コーヒーのシェードツリーとして有用な樹種や、根粒菌と共生し窒素固定能を持つマメ科植物などが含まれいています。既に、苗床で育苗している樹種あり、それらの苗は住民にコーヒーノキの苗を配布するときに一緒に手渡しし、各々の農園に植えてもらうことでアグロフォレストリ―を実現しています。

調査種のうち数種類はすでに苗代で育苗している。すべて保護区住民への配布用。

 

また、育苗を行えていない樹種に関しては調査において種の獲得も目指します。いずれにしてもどの樹種も、経験的に季節性は知られているものの、実際のデータとしては存在しないので、これからの1年間(2023年7月∼2024年6月)で毎月フェノロジーのモニタリングを行います。また、折を見て各集落の住民に聞き取りを行い、経験則に基づく各樹種の有用性や重要度について情報を集めることで、科学的なデータと慣習に基づくデータの集約もしていきたいと考えています。来年の任期終了間際にはデータをまとめ、共有できるようにすることが目標です。またそのデータに基づいた植林計画を示唆するところまでできれば、この地域の森林保全に少なからず貢献するとともに、農家のアグロフォレストリ―による農業生産の一助になるのではと考えています。

アルトマヨの森から流れゆくマヨ川。ワジャガ川、マラニョン川へと合流していき、最終的にはアマゾン川に流れゆく。



 

 

Ⅱ. 農作物の生産組合の販路開拓
林保全を行っていくうえで、そこに住む人の生活は考慮すべき重要なファクターであると考えています。仮に住民の生活を担保することなく、森林保全の施策を推し進めた場合、違法伐採や拡大農業、さらには住民間の軋轢につながると考えています。なので、私自身は住民が森林保全に貢献しながらそれぞれの生活の質を向上させられるような事業にもできる限り貢献したいと考えていました。アルトマヨの森保護区では、約十年前にコンサベーション・インターナショナル(以下、CI)という国際NGOがプロジェクトをスタートさせ、私の配属先であるSERNANP(環境省所轄国家自然保護区管理事務局)と協定を結びました。この国際NGOの知見に基づき、保護区内の住民と環境省保全協定を結び、私たちSERNANPやCIが技術支援や資金的な協力を、受益者である住民は協定の条項を遵守し森林を保全しながらそれぞれ活動を行う、というシステムを築きました。

保全協定を結ぶ前からコーヒーの生産が行われてきた。今は、保全協定を結ぶ家庭は森林を保全しながらコーヒーを生産している。

そして2014年には保全協定に署名した71人の住民によって、COOPBAM(和名、アルトマヨの森生産協同組合)が組織されました。この組合では主にコーヒーの生産と販売が行われており、私たちSERNANPやCIも可能な限りのサポートを行っています。これらのサポートもあって、2015年にはUSのオーガニック認証を、2016年にはフェアトレード認証を取得しました。

USオーガニック認証の監査立ち合いに随行。住民は化学農薬を使うことなく、ぼかしなどの有機肥料を利用し、酵母などによる生物的防除を行っている。

現在販路の97%はアメリカやヨーロッパ、ニュージーランドなどの外国への輸出で、生産量や組合農家の数の増加により、組合農家の生計向上や収入の安定のために安定した新しい市場を開拓することも必要となります。そこで、私が協力隊員としてここに配属されたのを一つの契機に、これまで直輸出したことのない日本市場の開拓の可能性を模索することとなりました。日本は世界で3番目に大きなコーヒーのマーケットといわれており、また来年EU諸国での農作物の輸入に関する制限が変更されるという話もあるため、日本にぜひ輸出したいという組合側の意向もあります。

組合の倉庫に収穫した豆が持ち込まれる。パーチメントコーヒーの状態でペルー北部沿岸のピウラ州パイタに輸送され、提携している業者によって脱穀され、各国へ船で輸出される。

日本でペルーと聞くとナスカの地上絵やマチュピチュ遺跡を真っ先に思い浮かべる方が多く、観光大国というイメージを持っている方も多いかもしれませんが、有名な観光地は南部に位置しているところが多く、北部にあるサン・マルティン州ひいてはアルトマヨの森は耳にしたことのない人がほとんどかと思います。せっかく日本に輸出ができたとしても局所的な輸出入ではなく持続可能な取引となるためにも、アルトマヨの森のことも知ってもらった上で愛飲してもらえたらなという想いもあります。なので同僚のサポートも得て、アルトマヨの森の豊かな自然とこの森での持続可能なコーヒー生産が伝わるような日本語字幕付きのショート動画を編集し、日本のコーヒー卸業者さんや焙煎所さんと話をするときの説明資料の一つとしました。

【アルトマヨの森保護区紹介動画】

youtu.be

【アルトマヨの森コーヒーのフェアトレード認証についての動画】

youtu.be

また、私はコーヒーを頻繁に飲んでいたものの特に詳しいわけでもなく、アルトマヨの森保護区に着任してからコーヒーについての勉強を始めました。実際に農園や組合が持つラボやコーヒーカッパー養成校に行って学ぶという、日本では滅多にない機会を享受できているものの、インプットはすべてスペイン語であるため苦戦しているところです。

組合の倉庫の2回にあるラボ。持ち込まれたコーヒー豆をカッピングし、味を評価し基準を満たす豆のみ引き受けることで品質管理が行われている。

それでも、アルトマヨの森のコーヒーに興味があると言ってくれる会社さんに輸入してもらえる可能性を少しでも高めるために、コーヒーについて一通りの説明ができるようになればと学びを続ける毎日です。(味が十分に雄弁で、僕の説明はあくまで補助的なものであると思っていますが。)6月には日本に一時帰国をしていた機会を利用して、いくつかの卸業者さん・焙煎所さんに生豆のサンプルをお持ちしてカッピングしてもらうことができました。ありがたいアドバイスやポジティブな評価もいただけました。生豆を日本に持ち帰るにあたってはペルーの農業潅水省が発行する植物検疫証明書が、日本の税関で必要となるため、組合や同僚の協力によってこの証明書の発行も行いました。いろんな方が関わって、それぞれ労力を割いてくれていることでもあるので、今回の取り組みが功を奏して輸出入が実現すればいいなと思っています。

日本に持ち帰った生豆サンプル。麻袋のロゴは日本への販路拡大用に、同僚と一緒に和名を打ち込んで編集したもの。



 

 

Ⅲ. アルトマヨ地域での社会・コミュニティの強化
1年と4ヵ月の任期を残した時点での任地変更だったので残りの限られた任期を考慮すると、ⅠとⅡの活動はどちらも時間を要することが明白な活動であったため早い段階で具体的にどう動くのか決めていました。しかし、このⅢの項目は今も具体的な内容は同僚や関係者と相談しながら手探りで始めているところです。現在のところ、対象者は”アルトマヨの森内もしくは周辺の小中学生”、”林学を学ぶ・学ぼうとしている方”、そして”保護区内の女性自治組織に所属する女性”の3者がメインになると考えています。

フアン・べラスコ集落の中学校の環境教育授業のアシスタントをしていた際に、無茶ぶりで「日本の環境問題の話をして」ってお願いされて話したときの写真。

実際に”アルトマヨの森内もしくは周辺の小中学生”を対象とした活動は少しずつ動き始めており、帰国前の5月末に保護区内のフアン・べラスコ集落の中学校で少し日本の環境問題について話をし、先日には保護区緩衝地帯のナシエンテ・デル・リオ・ネグロ小学校の5・6年生計55名を対象に日本の川の事例をもとに川の大切さを伝える授業をしました。ゲームを交えながら、高度経済成長期に汚れていった川を視覚的に再現して彼らに川の大切さを自発的に学んでもらえるように授業は設計しました。授業終盤の振り返りで、この集落を流れるネグロ川を綺麗に保ってねとお願いし自分との約束を守れますか?と聞くと、子どもたちは大きな声で「はい!!」と返事してくれたので、きっと彼ら次世代によってここの川は保全されていくんだろうと思います。今回の授業が1人でも多くの子どもの心に響き、この先にも残るものであったならいいなと願います。アルトマヨの森保護区は、ペルーの国立自然保護区において”森林保護区”というカテゴリーに分類されています。ペルーで76か所ある国立自然保護区のうち森林保護区は6か所だけで、これら6か所の森林保護区は、すべて森林内の水源の保全を目的に制定されています。今回授業を行ったナシエンテ・デル・リオ・ネグロも保護区に水源をもつネグロ川の上流にある集落で、かなりニーズに刺さったのではと感じています。そして、この時の様子を配属先がFacebookに投稿したところ、他の保護区周辺の小学校の校長先生からも同様の授業をしてほしいという要望がありました。実際に今回の活動の意義を見出してくださる方が地域内にいるということは、今回の授業が十分に評価に足るものだったということではと自負しています。

「川を汚したのは誰?」というゲームを交えて、川の保全の大切さを学ぶ授業を実施した。

また、”林学を学ぶ・学ぼうとしている方”も1つアクティビティを実施することができました。配属先の事務所があり、また私が今住んでいるリオハの街から30分ほど車を走らせたところに位置する、サン・マルティン州の州都モヨバンバにはサン・マルティン国立大学の生態学部があります。ここでは環境工学の学位を取得することができますが、カリキュラム内では選択コースにおいて林学の授業を受けることができるそうです。Ⅰのフェノロジー調査のアドバイザーをしてくれている大学の先生からの依頼で、先日林学コースの最終学年(大学5年生)を対象に”日本の森林と森林科学”というテーマで1時間半ほどの講義をさせていただきました。ペルーの地方大学では海外の林学について学ぶことができる機会がないという背景のもとに、教授から依頼されました。モヨバンバは竹林が多い街で、日本の竹林や竹産業に関しても紹介してほしいとのことでした。以上のことを踏まえて、抗議の内容は「日本の森林の構成と林政」「日本の森林関連産業」「日本の竹林と竹産業」「木材解剖学(木材組織学)」「ペルーでのフェノロジー調査」の5つの内容で構成しました。特に日本の林政や森林関連産業については、学生から最も質問が挙がった分野で、ペルーとの違いを感じてもらえたという確かな感触がありました。

サン・マルティン国立大学での講義。「日本の森林と森林科学」というテーマで話した。

ペルーの森林においては、生態系保全地球温暖化対策、水源涵養に重きが置かれており、なるべく木を切ることなく森林を保全するという政策の色が強いように感じます。対して日本では林産物の生産や土砂災害の防止といった項目にも重点が置かれているため、木を”切る→使う→植える→育てる”のサイクルを重要視しているように思います。ペルーの森林では99%が天然林と言われているの対して、日本は慣習的な里山文化や戦後の拡大造林の影響で人工林や人の手が入った山が多いことも影響しているのかもしれません。いずれにしても、前提条件が異なるため、森林保全の施策も異なるという話をしたところ非常に興味深そうにメモを取っていました。また、付随して森林資源を利用した産業が盛んな日本では林学から派生して林産学という学問が生まれ、ペルーと比較すると林産学の分野で活発に研究や実用化が行われているように思います。私自身も森林科学専攻で修士課程を修了しておりますが、林学よりも林産学に近い分野の方が得意です。今回は日本の林産学ということで、従来の構造物や紙・パルプ以外での森林資源の利用について少し話しました。特にCLT(直行集成板)の高層ビルへの応用や、セルロースナノファイバーの研究事例、化学修飾による木の主要成分(セルロースやリグニン)の応用を取り上げました。また、樹木の特性とも深く関わりのある木材組織は、私の最も得意とする分野でもあるので、大学院時代の研究内容も少し交えながら紹介しました。木材組織は木材の物理的性質とも深く相関があると言われていますが、教授も交えたディスカッションでは、病害虫に対する材の防除においても関連があるかもしれないという意見が挙がり、さらに深堀した内容の話を聞きたいという声もありました。どうやらサン・マルティン大学では木材解剖学の授業はないそうです。講義終了後、教授とは他の学年での同様の講義や木材解剖学の講義の実施について相談をしました。自分の日本で得た知識を少しでも、ペルーの森林保全に関わろうとする学生に還元できたらいいなと思っています。

講義終了後、受講生と一緒に記念撮影。彼らの将来に少しでも役に立っていることを願う。

”保護区内の女性自治組織に所属する女性”に対する活動に関しては、まだまだ担当者と話し合いを重ねている段階です。一度自治組織の集会を見学させてもらいました。その会ではそれぞれの集落から集まった女性が、一緒に編み物で工芸品を作るトレーニングをしていました。話を聞くところによると、実際に販売する工芸品の材料は各々で購入し、組織が一度回収。回収された工芸品には製作者が分かるタグがつけられており、縁日やイベントなどで販売されるとその工芸品のタグで製作者を識別し、その製作者に対して売価から組織管理費(売価に応じて変わる)を差し引いた金額が販売されるというシステムだそうです(例えば40ソル=約1200円が売価の工芸品の場合、2ソル=約60円ほどが組織管理費として差し引かれ、38ソルがタグに記載された製作者に手渡される)。各々で、材料を調達・購入し且つ売れなければ収入を得られないため、簡単なマーケティングの素養があった方が良いと感じており、マーケティングや他役立ちそうなテーマでワークショップを実施したいと考えています。CIのパートナーNGOであるECOANが女性組織の運営には携わっているので、ECOANの担当者に相談し、まずは1つの集落をモデルにやってみようと話になっています。ワークショップは複数回に分けて実施し、お金の収支管理ができるようになるための「帳簿」、自治組織の組織力の強化と女性間での結びつきを強めるための「チームビルディング」、各々で考えて効率化・改善を行っていくための「カイゼン(前職の会社でいうところの観分判)」の3つのテーマで実施し、最終的に各々でSWAT分析ができるような「マーケティング」のワークショップを行うことで女性のエンパワメントをしたいね、と話しています。モデルの集落でうまくいけば、他集落にも広げたいと担当者は話していました。まだまだ、モデルの集落を選定するところからですが、少しずつこちらも進めていきたいところです。

この日の集会は、アルトマヨの森固有種のフクロウのぬいぐるみ作りのトレーニング。



 

 

Ⅳ. 日本とペルーをつなぐ取組み
協力隊事業の意義の一つとして”日本社会への還元”が挙げられると思います。先人の事例に目を向けると、帰国後に日本で社会貢献事業をしている方も多く頭が下がる思いです。私はというと、現在のところ帰国後も国際舞台で森林保全に関わりたいという想いが強く、もちろんそうなれば国際社会において日本のプレゼンスを高めるという観点では日本社会に還元しているとも言えなくもないですが、直接的とは思えないため活動している今の時間の余白を利用して、日本とペルーをつなぐような取り組みをしたいと考えました。特に12月の社会情勢の悪化でクスコを離れ、リマに避難してきた際には活動がオンラインになってしまいできることに制限があったため、居住地の自治体である豊川市の国際交流を担当する部署の方に申し出て、豊川市の2校の小学校においてオンラインで異文化交流授業をさせてもらいました。その縁もあって6月の日本帰国時にも、今度は対面式で豊川市立小中学校3校で異文化交流授業をさせていただき、ペルーという国や活動の紹介をさせていただきました。休暇前にアルトマヨの森の中にある小学校に行った際には先生に相談し、豊川の小学生あてにビデオメッセージを撮影させてもらい、交流授業で映像を使用しました。逆に豊川の小学生からもアルトマヨの森の子どもたちあてのビデオメッセージを取らせていただき、背伸びをしない程度の草の根の交流ができているのではと思っています。本当は日本とペルーの子どもたちが直接コミュニケーションを取れるといいのですが、コロナ禍もあってオンラインで話せる環境が整備されたとはいえ、アルトマヨの森内はインターネットが入らないエリアが多く、また14時間の時差もあってなかなか難しいのが実情です。なんとかならないものかと思う毎日です(案があれば募集します)。

地元紙の東日新聞の朝刊で記事にしていただいた。豊川市出身の菅原選手と同じくペルーの話題で横並びになっているのは、センスを感じる。

地元豊川で活動内容紹介 | 東日新聞

豊川市 JICA青年海外協力隊員による異文化交流会を開催しました

また、同じく一時帰国前の5月に私が今住んでいるリオハ郡の郡長さんに表敬訪問もさせていただきました。郡長さんだけでなく議員さんも出席されていた中で、みなさん日本との交流には興味を持ってくれており、以前から交流に関して相談させていただいていた豊川市の国際交流協会のみなさんとも話に上がっていたFacebookグループを利用した写真や動画などでの市民間の交流を行っていけないかという話をさせていただいたところ、ポジティブな返答をいただきました。ただ、リオハでの参加者の募集方法などでは工夫が必要で、またグループを立ち上げてもどのように運営していくかというところでまだ話をする必要がありそうです。

リオハ郡役所に表敬訪問。郡長と議会議員さんとお話させていただいた。



 

 



ようやくリオハでの生活にも慣れ、活動も本格化してきましたが、そろそろ任期も折り返しです。任地変更もあって、任期延長の打診もありましたが、今のところ任期を延長する気はありません。ここでやりたいことはたくさんあって延長したい気持ちもありますが、やりたいことを上げ始めるとキリがないですし、延長することで時間的な余裕ができて慢心してしまうのも嫌だなあと思いました。決められた期間内で、優先事項のみやり切るというスタイルの方が自分には合っている気がします。それに、自分の帰りを日本で待ってくれている人もいるし、帰国後のキャリアのことを考えても、延長することよりも元の予定の日程で帰る方が魅力的に映っています。ただ、早く日本に帰りたいというわけでもなく、私はペルーが大好きですしこの任期が終わった後も仕事やプライベートでまたペルーに来たいなと思っています。

アルトマヨの森での朝焼けの風景。

クスコにいたときは人間関係の構築がかなりうまいこといっていて、特にホストファミリーや友人とは家で一緒に巻きずしを作ったり、イベントごとに僕を誘ってくれて一緒に遊びにいったりと、プライベート面でも充実していました。6月の上旬には、ようやくクスコへの国内旅行の許可が下りて、クスコの同僚、友人、ホストファミリーに会いに行くことができました。みんな温かい抱擁と言葉で僕を迎えてくれて、非常に感動的でした。特にホストファミリーは、「ここはTakaのおうちで、私たちはTakaの家族だから、何も気にすることなく泊まっていきなさい」と言ってくれて、以前一緒に生活していたようにお家に泊めさせていただきました。一緒に食事をして、会えなかった半年間の話をして、かけがえのない時間を過ごしました。ホストファミリーの6歳の娘さんは、12月に自分が首都退避になってからずっと「Takaはいつ帰ってくるの?」と聞いていたそうで、3月に任地変更が決まった後は1か月間毎晩「Takaに帰ってきてほしい」と泣いていたそうです。久々に再開した時には走って飛びついてきました。クスコのホストファミリーは自分にとって第2の家族だと思っています。

半年ぶりにクスコに帰った際にみんなで家族写真。

今の任地リオハでは街の規模が小さく娯楽も少ないので、クスコにいたときに比べると外出する機会も減りましたが、同僚が遊びに誘ってくれることも多々あり、また事務所で働いている掃除のおばちゃんは”Takita(自分のことを親しみを込めて呼ぶときの呼び名)のリオハのママ”を自称していて、よく家に招いてくれます。本当にありがたい限りです。”リオハのママ”の家で一緒に夕食を食べていると「Takitaが来年日本に帰っちゃうのかと思うと今から寂しいし泣けそうだわ」と言われました。

リオハのママはよく自分を家に招待して、夕食を振舞ってくれる。

まだまだリオハでは、活動が本格化し始めたところで現状では何もできていません。ましてやクスコは初めてのスペイン語での生活に慣れることに精一杯で、結局いろんなものを見てこんな活動をしたいなと思っていたころに去らなくてはならなくなり、活動に関しては後悔でいっぱいです。もちろん自分の知識や経験ではできることに限界があり、何か大きなことを成し遂げられるとは来る前から思っていませんでしたが、それでもペルーの抱える社会問題に何かしら貢献したいと思ってここに来ました。しかし、助けられるのはいつも自分の方で、そんな温かくて優しいペルーの同僚・友人・家族には、活動に精一杯取り組むことで恩返ししたいと思う毎日です。

クスコに帰った際に前の配属先のマチュピチュ歴史保護区の事務所にも訪問。なぜか会議に出席させられる。最高に愉快な仲間。



 

 

今回はタイトルにサカナクションの”忘れられないの”の歌詞を引用させてもらいました。”過去”の思い出を大事に胸の奥にしまって、”未来”に進んでいこうとする心情を歌った曲だと思います。本来であれば未来への旅立ちを歌う曲なので、昨年のペルー着任時の方が適しているのかもしれませんが、改めて折り返し地点の今この曲を聞いた時に、自分の信条と照合して腑に落ちる部分があったので引用することにしました。

3日だけのクスコ滞在でしたが、大半を家族と過ごした。

 

前半部分の”新しい街の この淋しさ いつかは 思い出になるはずさ”という部分は今のリオハで4ヵ月だった今の心情そのものです。まだまだ知らないことも多く、また前任地のクスコや首都のリマと比べると非常に小さな街で、夜は特にひっそりしています。クスコやリマの友人たちと離れていて、正直まだリオハで友人と呼べる人はほとんどいません。でもリオハの街の人も同僚も、自分のことを気にかけてくれていて、また今の任地でしたいこともある程度定まった中で、これからのリオハでの1年間にワクワクもしています。

リオハのママの家族と、ペルーで研修中のJICA職員を招いて食事。

そして、サビの“夢みたいなこの日を 千年に一回ぐらいの日を 永遠にしたいこの日々を そう今も想っているよ”の部分に関しては、リオハで過ごす1年が楽しみとは言え、クスコでの日々を思うと寂しさがこみ上げ、いまさらながらクスコでの日々が本当に自分にとって大切だったんだなと振り返る毎日を表現するのに最適なフレーズだと思っています。正直なところクスコで活動を2年間続けたかったという思いもあり、まだまだ吹っ切れてるとは言えず今も若干後ろ髪をひかれる思いです。実際にクスコに住んでいた時は何の気なしに過ごしていましたが、自分にとって本当に充実していて、今思い返してみると宝物のような日々だったのだと思います。しかしきっと、このリオハで過ごす日々もクスコ同様、大切な”忘れられない”自分の思い出になっていくんだと思います。

アルトマヨの森、きっとクスコと同様に少しずつ自分にとって特別な場所になっていく。