”日替りのような出来事もそっと 石碑の上に書きつけようか”
”そうしたら千年生きられようか 言葉は千年生きるだろうか”
「The Long Goodbye / 長いお別れ」 - Gotch
既に長い時間をペルーで過ごしている気もするし、まだ来たばかりのようにも感じる。
2023年はペルー南部での暴動により、首都退避から始まった。たった5か月しか過ごしていないクスコを後にし、2023年の最初の3か月は首都のリマで過ごした。そこから、任地変更でリオハにやってきて9か月が経った。ペルーに来てからだと既に1年5か月が経っているけど、いろんなところを転々としているからか、いつまでたっても気持ちはニューカマーだ。
やる気に満ち溢れていていいじゃん、っていう見方もできるし、いつまでたっても緊張状態が続いているという捉え方もできる。何となくそういうふわふわとして精神状態で2023年の大半を過ごした気がする。
しかし、11月以降くらいから何となく自分もリオハに馴染み、この街の一部になってきたように感じている。たぶんこう感じるようになった大きなきっかけは特になくて、日々の小さなことの積み重ねが、自分にこういう感情を抱かせるのだと考えている。今回はこういう小さな出来事をもとに、自分の感情がどう変化していったかを文字に起こしてみようと思う。
まず最近、同僚に大小問わずお願い事をされる機会が増えたように思う。例えば、物を運ぶとき、人を呼んでくるとき、少し大きめの会議の設営や運営、配属先主催のイベントへの参加。すぐにできることから、1日つぶれてしまうことまで、大小は様々だが初めの半年間はまるで「お客さん」だったのがきちんと「配属先の一員」になったと感じる。初めは倉庫の掃除をするときも手伝おうとすると「Taka汚れちゃうから大丈夫だよ、オフィスで待ってな」みたいに言われていたことが、最近だと「Takaは言った仕事すぐしてくれるし、なにより一個一個指示しなくても先読みして動いてくれるから助かるんだよね~」みたいに言われるようになった。
時間が解決した部分も大きいし、活動が軌道に乗り始めて物事を俯瞰して見られるようになってきたことで自身の気持ちに余裕ができたことも要因の一つだろう。もちろん、スペイン語の上達も間違いなくこの変化の大きなファクターと感じている。そして何より、自分が同僚に自発的に近づこうとしていることがこの変化につながっていると確信している。
それなりにコミュニケーション能力にもスペイン語能力にも自信はあったが、コミュニケーションを積極的に取りたい、というタイプでは無かったことも相まって、退勤後や土日にまで同僚に会うことはあんまりなかった。それどころか誘われても何かと理由をつけて(緊急性はまちまちだが、本当にやらないこといけないことはあった)半分くらい断わっていた気がする。それが、ここ数か月よほど緊急性の高い用事が無い限り、誘われたものにはほぼ100%参加している。さらには自分から同僚を誘って買い物や食事に行くことも多くなった。その結果が今の自分の現状につながっていると思っている。
もともと周りの人に自分の内面を見せない性格だが(今も誰にでも見せるわけではない)、任地のサン・マルティン州で自分の思っていることを話せる相手もいる。いつも家族のように自分を迎え入れてくれる彼らには感謝しかない。お家に遊びに行ったら、ご飯を準備してくれていて(たまに自分も日本食を作ったりもする)、活動の話や日本の話、自分の悩みなどいろんな話をする。自分のことは”Hijito"(息子)や”Takita"(親しみを込めた呼び方で、タカちゃんみたいな言い回し)と呼んでくれるので、自分も彼らを”Papita””Mamita”(父ちゃん母ちゃんみたいな言い回し)で呼んでいる。
同僚にも最近悩みを相談できるようになってきた。あと一歩のところで壁を作ってしまう自分の性格や母語でない言語で考えていることを伝える難しさを考えると大きな進歩だ。
こういった環境の変化による精神の安定は活動にも良い影響を与えている気がする。植林イベントの運営・参加(林業・森林保全分野で派遣されているので目的は自明)や保護区周辺集落の女性のエンパワメントを目的としたワークショップ(彼女らの積極的な環境保全の参加のための土台作り)、保護区の農業生産組合でのマーケティングの勉強会(環境に配慮した農業生産に対する経済的インセンティブの付与)など、自分の派遣職種や専門分野・得意分野に関わらず、必要とされている分野であればなんにでも一枚かむようにしている。
もちろんこの地域の持続可能な発展にトータルで関わっていきたいからという想いもあるし、これから国際協力分野でキャリアを歩んでいくにあたってバランスの良い人材となるためという意図もある。いずれにしても、積極的に多分野の活動に最大限注力できているのは同僚の協力あってのことであると言え、ひいては自分と同僚の関係の良好さがそうさせるのであると思う。
先行きが見えない中ネガティブな感情を抱きながらもがくところから始まった2023年も、右肩上がりにうまく歯車が回り始め、良い形で走り抜けることができたと思う。年末年始はゆっくりと活動のことはいったん忘れて過ごしたいなあ~、なんて思っていたら配属先の上司から年末チクラヨ(上司の実家のある町で、同期隊員もこの街で活動している)に行かないのか?と聞かれたものだから、急遽1週間前にチクラヨ行きを決めて、チクラヨで活動する同期隊員にも連絡を取って旅行することにした。
チクラヨのある北部コスタ地域は、海岸砂漠気候の乾燥したエリアで自分が住んでいるアマゾン熱帯雨林地域とも以前住んでいたクスコのような高山気候とも全く異なる気候だ。海が近いこともあり海の幸も豊かで、またチクラヨはいろんな地域と幹線道路でつながる物流の要所ということもあって豊富な食材もそろうためかグルメの街としても知られている。ペルーでも人口上位5位に入る大都市で、久々の大きな街にワクワクしながら、最近就航したタラポト-チクラヨ便のフライトで向かった。
今回の旅行は配属先にほとんど人がいなくなる12月28日から1月3日の1週間の旅程で、メインの目的地のチクラヨだけでなく周辺地域で、世界遺産のチャンチャン遺跡で有名なトルヒーヨ、上司の実家がありワカと呼ばれる遺跡が残るモチュミ、工芸品とクンビアの聖地モンセフ、海岸のリゾート地ピメンテル、シパン文化の街ランバイエケにも訪れることができた。
メインの目的地のチクラヨでは、同期隊員が市場や中心地などいろんな場所を案内してくれた上に彼がお世話になっている日系人の家族も紹介してくれた。今回の旅程の中でも、かなり長くの時間をその日系人家族と過ごした気がする。新年の年越し祝賀パーティにも連れて行ってもらい、大勢のチクラヤーノ(チクラヨの人のこと、江戸っ子・大阪人みたいな表現)と一緒に新年のお祝いをした。
トルヒーヨでは2名隊員が活動しているということもあり、チャンチャン遺跡だけでなくトルヒーヨの中心地やモチェ文化のエロティック公園なども連れて行ってもらった。人口増加の激しい街で人がたくさんいて雑然としている郊外とは打って変わって中心街は人の通りも少し減り非常に落ち着いていて洗練された雰囲気がある二面性のある街だなと感じた。チャンチャン遺跡はペルーに来た時からずっと行きたいと思っていた遺跡だったので、ようやく訪れることができて感激した。前日大雨が降ったこともあって博物館は清掃で閉まっていたが、広大な遺跡を一部歩いて回ることができて、またトルヒーヨ観光隊員のセニョールの案内もあって有意義な時間を過ごした。
モチュミでは、チクラヨの同期隊員と一緒に私の配属先の上司の実家を訪ね、街を案内してもらった上に郷土料理を振舞っていただいた。冗談好きの上司だが、細かいところでいつも気にかけてくれていて本当にありがたい限りだと思う。モチュミは観光地とはいいがたく、もしかすると私たちが初めて観光で訪れた日本人じゃないかと思うほどだった。商店街を歩いているとよほど外国人が珍しいのか、いろんな人が声をかけてきて明るく楽しい雰囲気を堪能した。
そして、チクラヨから30分くらい南下したところにあるモンセフも行くことができた。ペルーで人気のクンビアのグループ”Grupo 5”の結成の地で、クンビアの聖地として知られている。かくいう自分もペルーに来て以来少しずつクンビアを聞くようになり、中でも”Grupo 5”はお気に入りのグループだ。そして、パナマソウで編んだ帽子や刺繍、木工品など多種多様な工芸品が売られている街としても有名で、工芸品市場は小さいエリアながらもいろんなものを見て回っていると1時間以上かかってしまった。さつまいもとキャッサバの生地でできたドーナツでペルーの国民食のピカロネスも有名らしく、露天商で買ったピカロネスをパラソルの下で食べるのも風情があった。
新年1日にはリマの同期隊員も合流して海岸の街ピメンテルとシパン文明の街ランバイエケも回ることができた。元旦ということもあって、閉まっている場所も多かったのは残念だったが、日ごろの活動の話なども共有しながら旅行ができて非常に楽しい時間を過ごした。夕方にはチクラヨの同期隊員のおうちで、しめさば、おしるこ、年越しラーメンを食べてプチ正月気分を味わうこともできた。
そんなこんなで思い出したこと並べて書いたチクラヨ旅行だが、正月休暇が明けて既に任地サン・マルティン州リオハに戻って活動を再開している。
任地のリオハでは、年が明けてカーニバルが始まり日曜日はものすごい賑わいを見せているし、活動の方も1月後半に企画するワークショップの調整でてんやわんやしているところだが、この辺りは次回まとめて書けたらなと思い、今回はこのあたりで筆をおこうと思う。
思いついたことをポツポツと取り留めもなく書いた、まとまりのない文章だが私の大好きなバンドAsian Kung-Fu Generationのボーカル後藤正文のソロ曲「The Long Goodbye / 長いお別れ」でもあるように、”日替りのような出来事”もこうして記録に残すことで、自分がリオハを去った後もずっと思い出が褪せることはないんじゃないかと思っている。推敲もほとんどしていな駄文を、ここまで読んでくださった皆さんありがとうございました!!今年2024年も、全力でペルーの持続可能な発展の為に微力ながらも貢献していきたいと思う。
P.S.
最後に、本来であれば2024年の抱負を少しばかり述べてこの投稿を終わりにしたかったのですが、2024年年始に起こった能登半島震災についても少しばかり言及できればと思います。地球の裏側になってしまった母国日本で、たくさんの方がお亡くなりになり、傷つき、今も困難に直面していることのに対して、日本に居ない私は直接的にできることは寄付以外思いつきません。ニュースで能登の震災に関わることを見聞きするたびに、自分が何かできないことに悔しさを感じる毎日です。私は国税でペルーへ派遣されいる身であり、ペルーの発展のためはもちろん、日本社会への還元も責務であると認識しています。しかし、遠く南米の地でできることは日本の代表としてこの地域ですべきことを全うし、草の根レベルでの日本とペルーとの外交関係の橋渡しをすることだと考えています。今回の震災の件もあって、自分がここで果たすべき責任に関してさらに深く考えることとなりました。私自身、出身が淡路島で1995年の阪神淡路大震災の被災者です。幼かったため、記憶は明瞭ではありませんがそれでも親から聞かされる震災やもともとの家の横に建てた仮設住宅で過ごしたことは覚えています。今回、自分という人間が母国日本に対して何ができるか、何をすべきか改めて考えさせられました。そして、ありがたいことにペルーの友人や同僚も今回のニュースを聞いて、心配の声をかけてくれました。私一人でできることはこうして、小さな地域で人と人のつながりを広げるこですが、世界中で活躍する他の協力隊員の積み重ねでゆくゆくは国と国とつながっていく世界を実現することこそがJICA海外協力隊事業の意義なのではないかと感じました。