マチュ・ピチュ奮闘記

青年海外協力隊2022年7次隊として、林業・森林保全分野でペルーに派遣されました。クスコ州のマチュピチュ歴史保護区(世界複合遺産)で森林保全活動をします。自分が将来過去を振り返るための備忘録も兼ねて、日々の活動をボチボチ綴っていこうと思ってます。時々暑苦しい文章になるかもしれませんので、ご承知おきください。

"ここがどこかになっていく"

私が好きな詩人、谷川俊太郎さんの作品に「ここ」という詩があります。

 

「ここ」

どっかに行こうと私が言う

どこ行こうとあなたが言う

ここもいいなと私が言う

ここでもいいねとあなたが言う

言ってるうちに日が暮れて

ここがどこかになっていく

(谷川俊太郎「ここ」より引用)

 

 

本来は恋人同士がダラダラと過ごしている時間こそが大事な時間だ、という解釈が正しいのかなと思います。

少なくとも私は日本に居た時そういう読み取り方をしていました。

しかし、ここペルーで約4ヶ月を過ごし、少しずつ感性に変化が訪れる中でこの詩の捉え方が少しずつ変わってきたと感じていたので、この感性の変化になぞらえて久々の投稿を綴っていきたいと思います。

 

ようやく訪れることのできたマチュピチュ遺跡。この場所がこれからもずっと世界遺産として、魅力のある場所であり続けるための礎を作る活動にしたい。



 

さて、投稿をしていなかったこの1ヶ月半ほどだけでも沢山の出来事がありました。

マチュピチュ遺跡とワイナピチュを訪れ、ホストファミリーに寿司を振る舞い、保護区の村の道路の竣工式に参加しクイを食べ、農業灌水省の方を講師に招いた農業ワークショップに参加し、温泉に行き、苗の世話をし。。。

 

リマから来た貿易観光促進庁の職員さんたちのアテンドで、マチュピチュ遺跡だけでなくワイナピチュにも登頂。ペルーの貿易や観光についてもいろんな話が聞ける良い機会だった。



道路の竣工式に招待され、お祝いとしてクイを食べた。味はおいしいんだけど、フォルムがなかなか慣れない。



 

色んな経験をしていく中で、11月初旬、JICAに第一号報告書を提出する時期となりました。

この報告書では赴任して3ヶ月のタイミングで、任地へ赴き自分の目でその村を見て、何が問題で、どう対処していくべきかを報告する書類です。

 

この書類を作成する中で、今一度自分が見たもの感じたことを整理し、今何を考えているのかを言語化できたので、今回の投稿は私の考えの変遷のマイルストーンにさせていただけたらと思います。

 

第一号報告書をかきおえたタイミングで、JICAのオリエンテーションスペイン語の試験のDELEのためにリマへ。ちょうど”日本文化週間”でイベントが開催されていたので、参加した。ペルーは日系人も多く、特にリマでは日本食レストランも多い。久々に日本食をたくさん食べることができて満足。



 

私が活動する村周辺では火の不始末や農業生産性を短期的に高めるための野焼きを原因とした森林火災が多発する地域であり、森林生態系の劣化も激しく、植林を通じた生態系の修復が必須ということで、私の仕事の要請はなされたという背景があるそうです。

 

実際この村に来て野焼きを目にし、森林火災を目にし、そしてよく周辺地域でも森林火災が発生したというニュースを耳にします。

私が為すべき仕事の一つであり、要請の主な内容でもあるのはやはり植林活動でしょう。

幼少期から国際協力に興味を持ち、海外でも活かせる武器を身につけたいと考えていた私は大学・大学院で森林科学という分野を専攻していました。

この分野をダイレクトに活かせる活動でもある植林は、失われていく森林を修復する唯一の手段であり、もちろん私もこの課題に真摯に取り組んでいくつもりです。自分が知る限りの知識をフルに動員し、この2年間で"宮脇方式"というメソッドを通じた植林活動を少しずつ行なっていきたいと考えています。文献を漁ってもペルーでの実例が無い上に、乾燥林での実施例もあまり多くないため、何度も壁にはぶつかるかと思います。しかし、心強いことに私の周りには経験と知識のあるカウンターパートやパークレンジャーがいます。話し合いをしながら、出来ることから着々と進め、生態系修復に貢献したいと考えています。

 

マチュピチュ歴史保護区は自然資源も豊かで、特に原生種のラン科植物が有名。保護区内に423種類ものラン科植物が自生しているといわれている。



 

一方で、失われていく森林に対して応急処置的に植林を行うだけでは「イタチごっこ」に終始してしまうとも考えています。

やはり、そもそも森林火災を発生させないシステムを構築していくことこそが大事と感じています。

その中ですべきことは、火の不始末や火元ともなり得る山中へのゴミのポイ捨ての改善と、野焼きをしている原因への対処でしょう。

 

 

まずは前者、やはり環境モラルの向上は必須です。

タイミングよく村にゴミの圧縮機が導入される予定で、圧縮されたゴミは業者が買い取ってくれるので、まずはペットボトルゴミの分別から始めて、現金を得ることから初めていきたいとおもいます。

また、お金にすることはできませんが、意識の向上のために、まだ価値観の形成途上の村の子どもたちに環境教育を行いたいと考えています。

自分は木材を学んできた身ですし、そもそも派遣分野も林業・森林保全です。なのでこの分野を軸に、日本の「木育」から着想を得てまずは村の学校で「図工」の授業ができたらいいなと考えています。現在学校のカリキュラムに「図工」は組み込まれていません。村の自然の風景を写生し、そして自然の材料を使って工作し、自然に触れる機会を増やすことで少しずつですが環境モラルを増成に貢献したいと考えています。

ただ原生種の木材は伐採禁止なので、木工においてはかつて人工的に植林されたユーカリを使うことを検討しています。「なぜユーカリは切って良くて、原生種はダメなのか」について一緒に考えることもまた、一つの環境教育となるでしょう。

 

農業灌水省の職員から、果樹の病害虫対策に関するレクチャーを受ける。果樹のことは全く知らないので、毎度自分にとっても勉強になる。



 

ウルバンバにて、イベントに参加。ブースに訪れた方々に配属先の活動を説明した。スペイン語で説明するのはやはり難しいが、少しずつ伝えたいことを話せるようになってきたことを実感した。



 

そして、後者。野焼きに関して。伝統的に行われてきている手法で、翌年の農作物の収量を上げるためにも有効だからこそ代々行われてきていたのだと思います。外から来た私がいきなり「野焼きはダメ、野焼き禁止」ということ自体に全く意味が無いのは自明で、そもそもなぜ野焼きが行われているのかを考えることから始める必要があると思います。

なぜか。やはり以前の投稿でも少し触れましたが、この村に産業が少ないことは大きな要因の一つでしょう。

観光客が多く訪れるマチュピチュ歴史保護区にありながら、メジャーな観光ルートからは外れ、現金収入は限られます。農業や牧畜も行われていますが、自給自足から殆ど足の出ない程度のものです。主な収入源は自治体や省庁が発注する事業における日雇い労働で、現金収入の安定性はありません。

自分たちの食糧を作るのはもちろんなこと、現金化できる作物の生産は彼らにとって重要で、その中で経済的な負担も少なく、手間もあまりかからない野焼きという手法が取られてきたのは頷けます。

また、日本の植林だと最終的には木材生産に直結し現金化することが可能ですが、私が活動する保護区での植林となると原生種の木が大きくなっても伐採することは禁止されており現金化することはできません。

彼らに山を守るために野焼きはやめて、一緒に森を守ろうと、自分の与えられた命題だけに注視して活動を進めようとしたところで、彼らにとってメリットはなく、むしろ彼らの生活を脅かすことにも繋がります。

その中で、私が考えることは森林保全と相性の良い「養蜂」を基盤とした村民の生計向上です。

なぜ「養蜂」か。

まずはこの村の気候です。一年を通して比較的気温が一定で蜜源となる花が一年を通して咲いているため、通年で収穫が可能です。作業も比較的シンプルで、日雇い労働と並行して行うことも可能そうです。そして、実際にこの村に数軒養蜂を行っている家庭もあり、そのうち一軒はある程度大量に生産し、経験と知識も持っています。既にいる養蜂家をモデルに、周りに水平展開していくことができそうと考えています。

また、森林保全との相性に関しては、蜂は植物の花粉を媒介するため、原生種の繁殖が期待できます。さらに果樹を生産している方もいるので、果樹の受粉にも貢献でき、彼らにとっても経済的メリットがありそうです。

そして私が最も注目している点は、山中で放畜行われているのですが、このエリアでは森林火災が発生していない点です。彼らの自身の産業を守るためにそのエリアでの火の扱いは慎重になります。仮に養蜂を推進すると、養蜂エリアにおいても同様に火の扱いが慎重となり、延いては森林火災の予防となることが期待できます。

以上の点から養蜂の推進を目指しているわけですが、課題もたくさんあります。そもそも私自身に養蜂の知識はありません。

 

初期投資は1蜂群と養蜂箱のセットで1万円ほどですが、数セットの購入のために現金をすぐに用意できる方は決して多くないでしょう。

コロナ禍以降、ペルーではハチミツが健康に、特にコロナ対策に良いと考えられ価格が高騰しています。現在の売価であれば最初の3ヶ月収穫で、初期投資分を賄えるだけでなく収益も生まれます。マイクロクレジットNGOからの助成金も考慮に入れつつ、どうやって揺籃期へと持っていくか工夫が必要となりそうです。

そして次に「どうやって高付加価値化して売るか」です。現状では一番生産量の多い養蜂家は自身でマチュピチュ村まで運び卸しているそうです。実際にマチュピチュ村に訪れてみると、お土産物屋では売られておらず、主に村の住民が買い物をする市場でのみ、スーパーと変わらない売価で、ラベルも貼られずに売られていました。

ペルー国内でも、マチュピチュ歴史保護区内で作られた蜂蜜が売られていることは殆ど無く、売り方次第では売価を上げて高付加価値化することも可能と考えています。

私は大学院卒業時に、国際協力をするためは関連住民がインセンティブを得るためにも現金化するスキームが必要になると考え、自分の専門とは少し離れて文系就職しました。その時は自分の選択に迷いもありましたが、奇しくもこうして、自分の経験を活かせる可能性を見出すことができ、あの時の自分の選択が間違っていなかったことを確信しました。

どこまでできるか未知数ですが、養蜂業の推進で少しでも村の人が、副次的に現金を得るためのお手伝いができたら良いなと考えています。

 

”Pro salud”という風習。病院に行くため、薬を買うためのお金が足らない時、その家族や友人がお肉を焼いて近所の人に売ることで、その収益を病院代、薬代にする。



 

なぜ私が、植林だけで無く、他のことにも取り組もうとするか。

要請書を読み込んだ際、与えられた職務は「劣化する森林生態系を修復するための植林」ではなく、「森林生態系の劣化への課題解決」だと捉えました。"手段"と"目的"は混同してはいけません。あくまで"目的"は「森林生態系の劣化への対処」であり、「植林」はそのうちの一つの"手段"でしかないと捉えています。

職種もあくまで形而的に与えられた枠組みでしかないと考えているので、垣根を越えてでも"目的"を遂行するための取り組みを行っていきたいと思っています。

 

そして、なぜ、その枠組みを越えた活動中でも「村民の生計向上」と「子どもへの教育」といった、人にフォーカスした活動を行おうとするのか。それはマチュピチュ歴史保護区で活動し始めた時に目にしたあるものが理由です。

 

私の活動する村クオリワイラチナは保護区の入り口から6キロ離れており、また車道が無いため保護区の入り口からでも徒歩か数時間に一本の電車でしか移動することができません。

一方で入り口の村ピスカクーチョは車で来ることも可能で、尚且つインカ道のトレッキング客の入場口も兼ねているので、人の往来もそこそこあります。

どちらの村もマチュピチュ村や州都のクスコにに比べると産業は限定的で、確かに物質的に豊かとは言えません。

どちらの村にも訪れる中で、あることに気づきました。ピスカクーチョの村の子どもたちは底のしっかりした靴を履いており、中にはアシックスやアディダスのロゴの入った靴を履いている子どももいます。一方でクオリワイラチナの村の子どもたちはOjota(オホタ)と呼ばれる廃タイヤなどのゴムを材料としたサンダルを履いている子どもも見受けられます。

 

f:id:kusetsuyouiman:20221201232708j:image

 

たった6キロしか離れていない村で、なぜ履いている物が違うのか。自分はそのギャップを少しでも埋める活動をしたい。その想いから、今の計画を立案しました。

もちろん、自給自足で生活している人も多いクオリワイラチナと、都市へのアクセスも比較的容易なピスカクーチョでは貨幣経済の在り方も異なっており、一概に現金の必要性を同等と考えることは正しいとは思いません。

しかしながら、こんなに近距離で違いがあることに歴然とし、自分はこの2年間彼らの出来る限りのことをしたいと強く思うようになりました。

 

ホストファミリーに巻き寿司を作って振舞った。山岳地のクスコで鮮魚を手に入れるのは難しいので、スモークサーモンなどを購入し工夫して作った。



 

冒頭の「ここ」の詩に話を戻しましょう。

詩における、"私"は私自身で、"あなた"はクオリワイラチナの村と村の人たちです。

この村がどう進んでいくのが良いのか、今"私"は"あなた"に問いかけている段階です。

2年という限られた期間で、なおかつ私の限られた能力で、自分の掲げる"目標"を達成できるということはないでしょう。少しずつ、自分のできる小さなことを積み重ねているうちに、日が暮れて帰国の日を迎えるのでしょう。

 

「ここ」が「どこか」になるとき。私はきっともっとこの村が好きになっているのだと思います。私はこの村を「どこか」に導ける手伝いをしたい。

その「どこか」はなるべく遠く高いところだといいなあ、と思います。

そして、日が暮れた後はきっと、誰か私の意志を継ぐ人がきっとこの村をさらに「どこか」もっと遠くに導いてくれるのだと思います。

 

自分がこの村で精一杯の活動をするのはもちろんのこと、どうかこの美しい村とその現状を日本の多くの方に伝えたい。



 

限られた期間しか関わることのできない自分、焦ることも悲しいことも悔しいことも、残りの期間たくさん経験すると思います。

辛いことがあっても、この村が好きだから、この村のためにできることだけでも頑張りたいなあ、そう思うのです。

"「反復・継続・丁寧」は心地ええんや"

クスコ市内から2時間半、車と電車を乗り継いで私の活動する村クオリワイラチナに辿り着くことができます。マチュピチュへ向かう電車の、ほとんど誰も降りない駅、88km-Qoriwayrachina。この駅を降りてすぐにある集落が、世界遺産マチュピチュ歴史保護区の東側に位置するクオリワイラチナです。

 

「のぼってゆく坂の上の青い天にもし一朶の白い雲がかがやいているとすれば、それをのみ見つめて坂をのぼってゆくであろう」という司馬遼太郎の”坂の上の雲”の一説を思い出す情景。この村が勃興期を迎えることを占う空に見えた。



 

世界遺産でペルーの中でも比較的大きな街のクスコにあって、クオリワイラチナに無いものは物質的には沢山あります。レストラン、ホテル、車、スーパーマーケット。マチュピチュ歴史保護区内にありながら観光地な訳ではなく、物質的に豊かなわけでもない村ですが、それでも私を魅了する"都会では失われた魅力"があると感じています。

今週からはクスコにいる時間より、この村にいる時間が増えています。

これからこの村の人たちと沢山話し、一緒に考え、そしてかけがえのない時間を過ごすのでしょう。

今段階でも、苗畑とコントロールポスト(配属先が保護区を管理するための詰所)の往復だけではなく、巡回の際に村人から色んな話を聞き、また色んなワークショップに参加させてもらっています。

 

ポット苗での育苗で大事な作業”根切り”を行う。Pacay blanco(学名:Delostoma integrifolium)というノウセンカズラ科の植物。



養鶏のタジェール。幅広い分野で村のサポートを行っている。



 

私自身、まだまだこの村の知らないことの方が多い身ではありながら、徐々に村のことを知っていく中でこの2年間の活動は以下の3つに重点を置きたいと考えています。

 

 

①日本の造林技術を導入した迅速な生態系修復

②森林保全と親和性の高い産業を基盤とした生計向上

③“木育"の普及による未来の世代への環境啓発

 

 

 

まずは①日本の造林技術を導入した迅速な生態系修復、について。

森林火災が多発するこの地域において、急速な修復方法があるならばそれに越したことはありません。

そしてその中で今"宮脇メソッド"という造林方法に注目し、実現可能性を探っています。故宮脇昭博士が神社の周りの森“鎮守の森"から着想を得て、確立した方法です。複数の固有種を混植・密植することで、生存競争を促し、植生において多階層を迅速に形成する方法です。通常の成長の何倍もの速さで極相(植物群落の遷移における最終段階の平衡状態のこと)に達し、また二酸化炭素の吸収も生物多様性も従来の造林地よりも優れていると報告されています。

カウンターパート(活動における相棒)にもこの方式の紹介をし、実施するにあたってかなり積極的になってくれています。ただいくつか解消しなければならない問題もあります。まずは複数種類のポット苗の確保。日本での事例では20種類前後を植えていますが、山間部にある植栽地の近くにある苗畑にはそこまでたくさんの種類の苗は置いてありません。他の近くの苗畑から集めて来なければなりません。そして何より困難なのは、土壌の問題です。砂質ローム(砂とシルト、粘土が混ざっているが粒子は大きめで保水力は高くない)であるため、大量の腐植土が必要になりそうです。ただ大量の土をどうやって山の中腹まで持って行くのか。。。カウンターパートと頭を抱える毎日です。

 

マチュピチュの固有種のことを教えてもらいながら、苗の管理を行っている。



潅水作業。マチュピチュの山の中の苗畑での作業は絵になる。



 

そして②森林保全と親和性の高い産業を基盤とした生計向上、について。

この村は産業と呼べる産業が無く、そうなると農業の生産性を高めることや農地拡大を目的とした野焼きや焼畑のリスクが高まり森林火災が発生しやすい環境を創出してしまいます。森林火災による生態系劣化へのアプローチに対して、植林が改善策であるとすれば、生計向上は根本的な解決策の一つと言えます。

先週は近くの村の鱒の養殖家の方のところへ巡回に行きました。巡回は住民の求めているものを知る絶好の機会であるとともに、自然保護の観点からその産業が悪影響を及ぼさないかを評価するという作業でもあります。

鱒の養殖には、豊富な水源が必要であり、尚且つ水を循環させ続けなくてはいけないため、しっかりとした水槽と水路といった設備投資と、その管理が必要だそうです。また物流の観点からも大量の鱒を都市部に輸送するのは困難が予想されます。新しく設備投資をして事業を始めるにはリスクがかなり大きそうです。

そしてすでに小規模ながら、集落内で栽培しているアボガド。販路もある程度確立されているものの、ノウハウが蓄積されておらず、またアボガド栽培には大量に水が必要なことで、大々的な産業にまで至っていません。近くに川が流れているため水源は確保できるものの、灌漑設備がなく、また設備投資のためのお金も十分ではありません。ただ、設備投資の問題さえクリアされれば生計向上に大きく貢献しそうな産業と感じました。

Taraと呼ばれる木の豆の利用もカウンターパートから期待されています。まず莢にはタンニンと呼ばれる成分が含まれ、この成分はなめしとして、皮革に使用されます。さらに種からは黒い染料を精製することが可能で、さらにはのどの腫れに効く薬としても利用可能だそうです。1キロ当たり6ソル(200円ほど)で売れるそうですが、労働コストに対してどれくらいの収入を得ることができるのかを精査してみる必要があります。

他にも廃棄物処理業も気に留めています。直近でゴミの圧縮機を導入する予定があり、プラスチックゴミ、紙ゴミ、缶をそれぞれ分別し圧縮して換金することを考えています。クオリワイラチナは電車の停留駅で、保護区内の他の村に比べるとクスコへのアクセスにおいてはアドバンテージがあります。したがって、他の村からもゴミを集めることで、ある程度の量を確保でき、ある程度まとまったお金を稼ぐ方法となる可能性もあります。しかしこの村で、というよりペルー全体で家庭レベルでゴミの分別が習慣づいてるわけではありません。なので今、配属先のこの案件の担当者と一緒に、"日本のゴミの分別"を紹介し、実践できるようにするためのワークショップを企画しています。

個人的に今、最も実現可能性が高そうと感じているのは養蜂です。全くもって養蜂に関しては素人なので、勉強する段階からのスタートではありますが、調べる限り初期費用が高くないこと、既に50近くの蜂群を管理して養蜂を行なっている村の人がいるためある程度ノウハウの水平展開が期待できること、他の農産物等とは異なって腐ることがなく物流が比較的容易にできること、競合も決して多くなくマチュピチュ知名度を活かしてブランド化しやすいこと、ミツバチは植物の蜜を必要とするため森林とも深い関わりがあり森林保全と親和性が高いこと、加工性が高くある程度軌道に乗せることが出来ると加工品を販売してさらに収入向上に繋げられる可能性があること、などなどメリットが多いように感じます。ただまだまだ素人考えなので、実際に村の住民の養蜂設備を見学させてもらい話を聞いてくる予定です。また、下調べも入念にしておく必要があるので今は調査段階です。嬉しいことにカウンターパートからは、社会人時代に身に着けたマーケティングの知識を期待していると言われています。大学院卒業の時、迷いもあったけど自分の選んだ道に間違いはなかったと思いました。あとはどう活かすか。

 

鱒の養殖の水槽。母体、出荷個体、小さい個体、稚魚の4グループに分けて養殖。



アボカドの木の病害対策のワークショップ。参加者は多いが、メモを取って聞く人が一人もいないことが気になる。果たして聞いた内容を実践できるのだろうか。

 

 

Tara(学名:Caesalpinia spinosa)というマメ科ジャケツイバラ属の植物の種。




ゴミの圧縮機の設置予定個所の確認。この日は村の有力者と会議に参加し村の現状を聞いたうえで、日本のゴミ分別を紹介し実践できるようにするためのワークショップを開催したいと申し出た。



ハチミツの市場調査のためにクスコ市内のスーパーでストアコンパリゾンを行った。ここでかつて学んだチェーンストア理論を活かすことができた。



 

最後に③“木育"の普及による未来の世代への環境啓発、について。

木育は「木に触れる活動」「木で創る活動」「木を知る活動」の3つのステップで構成されます。まずは木で出来た製品、もしくは自然の中で五感を働かせて木に触れる活動。そして木を使って楽しみながら何かを作り改めて木の性質を体感する。最後に木材と森林の関係性について学び、森林を保全するための活動に積極的に参加する姿勢を養う。これらの3つの"木育"のステップを体系化し、将来にわたっても森林を自発的に保全できるまちづくりを行なっていけたらと考えています。大学院の時、「木に触れる活動」においては、大学院時代に実際に樹木観察や木材の顕微鏡観察のTAをしていたので、なんとなく頭の中でイメージできている活動はあるので、ここからスタートさせていきたいと思います。

 

クスコ市内で書道のワークショップを実施。今回の経験が村でのワークショップでも活かせると思う。日本の文化も積極的に紹介し、世界は広いことを伝えたい。



 

もちろんこの3つの軸に執着し続ける気はありませんし、自分の能力不足を毎日のように痛感する中でどこまでできるかも未知数です。

 

山の中腹にある苗畑に行ったときに、同僚とドイツ人の留学生と。



コントロールポストでの食事は当番制で作る。



 

自然あふれる村、クオリワイラチナ。

自分はまだここで何者でもありません。

村の方々と日々対話し、求めているものを正しく捉え、この村の一員に少しずつなっていけたらと思います。

タイトルの言葉は私の好きな漫画、ハイキューに登場する稲荷崎高校の北信介のセリフです。

日々の仕事、言語の勉強、村人達との会話、すべてを「反復・継続・丁寧」に行うこと。

結果よりも過程が大事。掲げた目標に対して正直どこまでできるか分からないし、周りの助けがなければきっと何も出来ません。自分の頑張ってる過程をきちんと見てもらい、自分の味方を増やし、そして自分もまた村人の1人になること。これこそが今私が1番目指すものです。

きっとその先に自分の達成したい未来があると信じて。

 

これを渡らないとたどり着けない苗畑もある。高所恐怖症かつ泳ぐのが苦手な私にはかなり厳しい道。



静かで自然豊かな村、クオリワイラチナ。この自然を守り育てながら、この村が発展していくことを祈る。少しでもそのサポートができたら嬉しい。



旅行記 Capítulo 4 ~バングラデシュ・ダッカ&シレット~

バングラデシュ

きっとなんとなく耳にしたことはあるものの、どこにあるのか、どんな国かを知っている人は決して多くないのではないでしょうか。

 

ダッカ市内にあるヒンドゥー教寺院、ダケシュワリ寺院。ダッカの名前の由来でもある。ダッカで最も訪れたかった場所。




日本人が観光のための旅行先に選ばない国に行くことは、逆に周りの人がほとんど知らない世界を知る機会と捉えていました。なので、私の行く国は決して有名ではない国も多かったように思います。
ただ、物見遊山で無駄に大枚をはたいて海外旅行に行くことはしたくなかったので、どの旅行に行く際も”何を見たいか”、”何のために行くか”目的意識を持って、旅に出かけるよう心がけていました。

 

オールド・ダッカ(旧市街地)にあるピンクパレス。ダッカの数少ない観光地だが、それでも外国人はほとんど見かけなかった。




では、なぜバングラデシュに行ったのか。
バングラデシュは南アジアにある国で、かつては”アジア最貧国”と呼ばれていました。
しかし近年、人口増加と繊維業をはじめとする産業の誘致、さらにグラミン銀行創設者ムハメド・ユヌスによるマイクロクレジット制度等により、経済成長が著しいことで知られています。しかし、未だ貧困が根絶されたわけではなく、またミャンマーからロヒンギャ難民も流入しています。

また2016年7月1日には首都ダッカのグルシャン地区にて、JICA関係者の日本人7人を含む22名が犠牲となる、テロ事件も発生しました。

経済成長著しく、また一方でまだまだいろんな社会問題も渦巻く国。バングラデシュ

2019年のJICA春募集で合格を頂いていた私は会社の休暇制度を利用して、この国の現在を見に行くことにしました。

 

ダッカ・レストラン襲撃人質テロが起こった場所、the Holey Artisan Bakeryの跡地。ここグルシャン地区は各国大使館なども並ぶ、テロが起こることも想像できないような静かなエリア。ここで22名の尊い命が奪われた。きっと志半ば、悔しい想いだったと思う。少しでも彼らの意志を継ぎたい。

 

 

 

仕事後そのままセントレア空港に直行した私は、タイ航空バンコク経由で、2019年8月1日首都のダッカに降り立ちました。空港から出た瞬間の熱気と人の多さに圧倒されたことをよく覚えています。

有名な日本人宿"あじさい"にチェックインし、荷物を置いたのちダッカ国立動物園を散策しました。

日本人、というより外国人がそもそも珍しいのか、すれ違う人が皆声をかけてきて、時には一緒に写真を撮り、有名人になった気分です。

動物そっちのけで、私の方に寄ってくるその愛嬌に魅了され早速バングラデシュの魅力に取り憑かれてしまいました。

 

ダッカ国立動物園にて。外国人が珍しいのか、たくさんの人が一緒に写真を撮ろうと声をかけてくる。それよりも動物見てくれー!



ダッカの有名な日本人宿、”あじさい”にて。一階には日本食レストラン”ながさき”があり、このレストランが当時バングラデシュのプロサッカーチームのスポンサーをしていたそうで、シャツをいただいた。



 

ダッカの中心地には立ち寄らないまま、国内線でシレットという街に向かいます。

シレット管区はインドのアッサム地方に隣接しており、紅茶の産地です。また、海外、特にイギリスへ働きに出ている方も多いそうで、バングラデシュの中でも比較的豊かな人が多い地域だそうです。

それでも、郊外には上半身裸でかなり原始的な生活をする人、街には物乞いをする子供。この国の歪さを感じずにはいられませんでした。

 

Novo Airにて、ダッカ-シレット間を移動。初めてのプロペラ機。若干の恐怖心と共に搭乗。



シレットのハズラト・シャフジャララ・マザル・シャリフ・モスク。一日中歩きまわってへとへとに。まぶしそうな顔がすべてを物語る。



 

川沿いには洗濯を手でする子供たち。家の手伝いをすることはすごくいいことだと思います。しかしそれ故に勉強の機会が阻害される、もしくは金銭的理由で学校に行けず、妹や弟の世話、家事をせざるを得ないという背景も持った子供たちも沢山います。

彼らが望めば学業に専念できる環境を作るために自分が出来ることはあるだろうか、少なくとも今は何もできない。出来ないことの多さを目の当たりにする度に傷つき、そしてその感情をバネに"いつか世界を変える力になる"ために努力を怠らないことを誓います。

私にとって旅は、美味しいものを食べる、綺麗な景色を見る、歴史に触れる、だけではなく自分を奮い立たせるためでもあります。

 

お世辞にもきれいとは言えない水で洗濯をする子供たち。




 

再び国内線にてダッカに戻ってきた私は、今度はダッカの中心地に滞在しました。モディジールという市街地をリキシャに乗って駆け抜けます。リキシャの鈴の音がどこか哀愁漂う雰囲気を醸し出し、人混みをかき分けながら得体の知れない迷宮に誘うように感じました。

どこの角を曲がっても、人、人、人。インフラが脆弱なため常に交通渋滞が発生し、排気ガスの量も尋常ではありません。さらに街のあらゆるところにゴミが無造作に放置され、悪臭が漂っている場所もあります。大きな人口を抱えるこの灼熱の街はやはりどこか歪です。

 

車道はリキシャ、歩道は人で溢れかえっている。リキシャの鈴の音にいざなわれて、混沌の街ダッカに迷い込む。



一杯約6円ほどの紅茶。コップはトレイに張ったお湯で飲み口を軽くすすぐだけ。衛生面は心許ないが、味は紅茶の有名な産地だけあっておいしい。



 

そして旧市街地のオールド・ダッカイード(ラマダンの終了を祝う祝日のことで、日本のお正月のように地元に帰省する人も多い)の直前で、貧しい方へも振る舞われるための牛が街中に溢れかえっており、楽しいお祭り気分の箇所もありました。(牛糞が道路に広がっていましたが、気にしてはいられなかったのでしっかり踏みながら目的地に向かいます。。。あとで宿で綺麗に靴を洗いました。。。)

 

イード直前だったため、オールド・ダッカは人だけでなく、祝祭用の牛もたくさんいた。



 

たしかに豊かとは言えないこの国ですが、イスラム教徒がほとんどの彼らは、五行の一つでもある貧しい方に対しての喜捨(ザカート)が習慣づいており、分け合う精神が根付いているように感じました。果たして日本はどうでしょうか。

日本も相対的貧困の問題がクローズアップされる機会が増えました。高い物価に釣り合わない収入の方々も多く、助けを必要としている方も多いでしょう。ただ、周りとの関わりを持ちたがらず、困っている人に目を向けようとしない。そういう人が増えてきているように思います。

海外の国々を見聞し、外から日本を見ることで見える景色もあると思っています。

JICAからの合格通知も手にし、これから国際協力の道に足を踏み入れようとする自分を奮い立たせるための旅でした。このタイミングで、経済発展と数多の社会問題が表裏一体のバングラデシュで、ゆっくりと考えを深めることができたのは、非常に有益なことだったと思います。海外の問題も日本の問題も沢山あると思います。そのどちらにもアプローチできる力をつけることこそが"いつか世界を変える力になる"ことなのだと思っています。

 

この街で一人きりになれる場所なんてないんじゃないか、と思うほどの人の多さ。そして道端には物乞いをする人もたくさんいて、貧困ビジネスも横行していることを耳にした。



 

ペルーに来て2ヶ月。自分の出来ないことの多さに改めて向き合い、辛酸を嘗めながら、反骨心で日々を精一杯もがき続けています。

"いつか"という悠長な言葉は好きではありませんが、それでも私はその"いつか"に向かって着実に一歩一歩近づいている。そう信じています。

"世界を変えてきたのはいつのときもたった一人の強く熱い想いがあるから"

配属先の国家自然保護区管理事務局マチュピチュ歴史保護区のメンバーで。専門家も、パークレンジャーも学生インターンも一緒にマチュピチュ村のパレードに参加した。私は中腰右側。



日本で28年間生きてきて、行進をする機会なんて年に1度の運動会くらいしかなかったと思います。しかし、ここにきて1週間で2度行進をするという稀有な経験をしました。まず9月24日、ペルーの観光の日にクスコの中心地、アルマス広場にて。

 

9月24日、観光に日にクスコ事務所のメンバーでパレードに参加。

世界遺産の街クスコの中心地、アルマス広場でのパレードに参加できるのはこの街で働いているからこそ。とても貴重な経験をした。

 

そして9月29日、La Municipalidad Distrital de Machupicchu(マチュピチュ地区自治体)の81周年の記念式典に、マチュピチュ遺跡で有名なマチュピチュ村(アグアスカリエンテス)にて、参加しました。配属先はマチュピチュ歴史保護区の自然の保全を担う環境庁管轄の組織で、両方の式典に招待されていました。

 

9月29日、マチュピチュ地区自治体の81周年記念式典に参加。パレードでは旗持ちを務めた。

どちらのパレードにおいても自分自身が行進したのは5分ほどであっけなく終わりましたが、マチュピチュ村でのパレードでは旗持ちをさせてもらい、なんとなく自分も配属先の一員に慣れた気がします。マチュピチュ村のコントロールポストでも、式典前後にパークレンジャーや専門家、学生インターンの方々が各々私に”Taka”もしくは”親しみを込めて”Takita”と呼んで話しかけてくれて、現地語のケチュア語を教えてくれたり、逆に自分も簡単な日本語や日本の文化などを教えたりと、円滑なコミュニケーションが図れるようになってきました。

 

マチュピチュ村のコントロールポストの奥側の景色。この山の奥に有名なマチュピチュ遺跡がある。今回は時間がなくて登れなかったが、次回こそは。

 

 

しかし。一対一での会話、特に日常会話でわからないということはほとんど無くなってきたもののやはり会議や専門的な会話においてはまだまだ自分のスペイン語の能力不足を痛感することも多く、悔しい思いをすることも多いのが実情です。2年半前の駒ケ根訓練所での派遣前訓練で初めてスペイン語の学習をはじめ、その後の派遣待期期間も自学でスペイン語の勉強は継続し、DELE(スペイン語能力試験)のB1(中級レベル)も合格したうえで渡航してきていたので自信を持って渡航してきていましたが、自分がスペイン語でこんなに悔しい思いをすることは正直あまり想像していませんでした(準上級のB2も受験しましたが、読解・記述パートで2ポイント足らず不合格に…。ただOralは満点だったので、それなりに会話にも自信がありました。)。配属先の専門家はBiólogo(生物学者)、Agrónomo(農学者)、Licenciado en Turismo(観光学士)などの敬称を付けて呼ばれることが多く、それぞれ高い専門性をもって仕事に取り組むことが求められます。農学修士を取得している私も、まがいなりにもAgrónomo(農学者)ということなります(便宜上、生物学者・農学者という単語を使っていますが、皆博士号を持っているわけではないので、日本語としてどの単語が適切なのかわかりません)。しかしスペイン語能力においてまだまだ専門的な会話をするに追いついていない自分は、少なくともAgrónomoとしての役割を果たせていないと感じています。そんな私はまだまだ組織内においては珍しい外国人のマスコット的存在でしかなく、活動において配属先の期待に応えられていません。まだまだ活動も始まったばかりで、今は“問題点を見つける”、“配属先において必要な知識を習得する”段階であるものの、やはり“早く貢献したい”、“いつまでもこのままの認識では2年間で何もできない”という想いが先行します。協力隊事業は人材育成の側面もかなり強いので、きっと大きな成果が求められているわけではありません。しかし、それは“何もしない”もしくは“何も成し遂げなくていい”言い訳になってはいけないですし、応援してくれている人や優しく迎えてくれる同僚に対して自分の貢献で返したいという想いもあります。そして、もちろん協力隊終了後に見据える自分の未来のためにもここで何か爪痕を残したいとも思っています。

 

マチュピチュ村のモニュメント。現在は観光客も戻ってきて町は活気づいていたが、観光客は欧米からがほとんどで、今回日本人は見かけなかった。



 

「悔しさを抱えながらも自分は常に前に進みたい。」
そういう感じるときに、思い出す曲のフレーズがあります。

 

"世界を変えてきたのはいつのときもたった一人の強く熱い想いがあるから"

 

私は2019年の春に青年海外協力隊に応募しました。新卒で入社したニトリでの仕事にも慣れてきた頃で、このころにはできることの幅も少しずつ広がってきていました。もともと大学・大学院では森林科学という分野を専攻していた私ですが、かねてより国際舞台なおかつ国際支援の分野で活躍することを志していた私には“自分の持っている知識を駆使してマネタイズする”という能力が不足しているように感じていました。したがって成長企業で、かつ木材製品の家具をはじめとする様々な商品を製造・物流・小売という一気通貫のシステムをもって販売するニトリに魅力を感じ入社を決めました。ニトリでの仕事は楽しく、成長も感じていました。しかしもともと自分のキャリアの一つの通過点として設定していた青年海外協力隊には、仕事が楽しいと思えないときにまるで逃げるかのように参加したくない、そして青年海外協力隊のその先にある自分のキャリア、外務省を通じて国連に派遣されるためのJPO試験に年齢制限がある、ということも加味してこのタイミングでの応募を決意しました。もちろん迷いもありましたが、この時のJICA青年海外協力隊の募集を募るCMのフレーズ“いつか世界を変える力になる”とそのテーマ曲が自分の背中を強く押してくれました。

 

自分の活動の振り返りと、今後の活動を合理的に計画するために自作の週報を作成。ニトリで働いていた時に叩き込まれた観分判(観察・分析・判断の略。気になる方は下のリンクの参考にどうぞ。)に基づいた項目を設定。ニトリで学んだことはこの先も私の武器になる。

www.amazon.co.jp



 

比較的強い表現の“いつか世界を変える力になる”というフレーズ。

そしてテーマ曲の倉木麻衣の“きみへのうた”の1フレーズ。

"世界を変えてきたのはいつのときもたった一人の強く熱い想いがあるから"

www.youtube.com

 

 

「自分は協力隊に参加し、そこで研鑽を積んで“世界を変える力”になりたい。そしてその“強く熱い想い”をぶつけ続けられるような日常が欲しい。」そういう想いを駆り立ててくれました。
当時も今も所詮一端の若造でしかありませんが、“強く熱い想い”がなければ何かを成し遂げることはできません。自分にできることはきっと大きなことではありませんが、“強く熱い想い”を持ち続けながら、今のペルーでの活動も、その先も駆け抜けていきたい。そう強く思います。

マチュピチュ村の早朝4時半。この時間にJICA国際協力JOBセミナー「スペイン語を活かして中南米で働く」にオンライン参加。自分のキャリアパスを今一度考える機会となった。

 

おそらくこの2年間もっと、自分の足りないものの多さに気づき、悔しい思いをたくさん経験します。そんな時はまた、このフレーズを思い出して前に進んでいくのでしょう。

 

"世界を変えてきたのはいつのときもたった一人の強く熱い想いがあるから"

"土に根を下ろし、風と共に生きよう"

 

マチュピチュの”聖なる谷”にある村、Qoriwayrachina。ケチュア語で”金の風”を意味する。2年間私が過ごす村。


"土に根を下ろし、風と共に生きよう。種と共に冬を越え、鳥と共に春を歌おう。"

 

有名なジブリアニメ"天空の城ラピュタ"のセリフの抜粋です。私が2年間活動する場所、マチュピチュの遺跡は時に"天空の城"と呼ばれることもあります。そのマチュピチュ歴史保護区内の"聖なる谷"沿いに位置する村、Qoriwayrachina(クオリワイラチナ)にようやく来ることができました。2年間ここで青年海外協力隊林業・森林保全隊員として、植林・森林計画、マチュピチュ在来種の育苗、そして地域住民への啓発活動などを行っていきます。

 

村から1時間ほど山を登った”Waynaq’ente"にある育苗地。ここで、植林に用いるための在来種の苗を育てる。




マチュピチュは知っていても、Qoriwayrachinaを知る方はほとんどいないと思います。

現地語のケチュア語で"金の風"を意味するそうです。

かつては金が生産され豊かな街だったそうですが、今は金の生産はされておらず、マチュピチュ歴史保護区内にありながら観光客にとっては交通アクセスが良いとは言えないため観光業で潤っているわけではなく、さらに他の経済基盤となる産業も特にありません。

 

少し歩くだけで、いろんな遺跡が見られる村。太古から蓄積された叡智に触れられる。



 

この村の中で小規模で農業や畜産をしている方はいますが、あくまで村内での消費が目的であり他の街に流通はしていません。そもそも土壌もあまり肥沃ではないそうです。そのため、焼畑農業が行われることもありその火が燃え広がって森林火災につながることもあるそうです。実は今回3日間Qoriwayrachinaのコントロールポストを拠点に活動しましたが、初日に大規模な森林火災が発生しました。今回の原因は焼畑農業ではなく、雷によるものでしたが、火は広範囲に燃え広がり草木や動物の生息地を焼き払いました。マチュピチュ歴史保護区内の他のコントロールポストからもパークレンジャーが集結し消火活動に取り掛かりましたが現場に行くまでに4〜5時間を要し、消火活動も容易ではありません。

 

9月21日の落雷が原因で発生した森林火災。多くの自然資源の損失を招く。



 

今回は私にとって、保護区内で初めての任務だったということもあって危険性を加味して、私はコントロールポストに残って無線連絡やレンジャーが戻ってきた際の食事の準備等を担いました。まだまだひよっこな上にスペイン語も流暢とは言えない中で、自分に何ができるのかをものすごく考えました。目の前に火災現場があって自分もそこで貢献したいという思いもありましたが、まずは草の根レベルのできることからと思い、地域の人や関係者の話を聞き、そして早朝3時に起きて男20人前の食事の準備をすることに徹しました。

 

早朝3時に起床して、20人前の朝食・昼食(お弁当)の準備。3人で役割分担しながら調理。



 

クスコ市内から運ばれてくる物資。村民みんなで協力して荷下ろし。ニトリに勤務していたころの搬入作業がここで活きた。



 

今回、色んな人から話を聞いてわかったことも沢山あります。

 

コントロールポストで毎日走り回る侵入者。村のアイドル。



 

まず、地域の住民と配属先のコントロールポストとの関係性が良好であること。多くの住民がすれ違い様に森林火災が大丈夫か、ということを心配していました。またかつてはコントロールポストが実施する植林活動に、雇用契約を結ぶ形で協力してくれていた人も多いそうです。そしてコントロールポストが管理する菜園ではレタスやキャベツ、パクチー、にんじん、玉ねぎ赤蕪など色んな種類の野菜を栽培しており、村人は1つ50センティモス(約15円くらい)の廉価で購入できるそうです。村人がポストの前を通り過ぎると必ず明るく挨拶を交わし、時には雑談が始まります。多くの村人が初めて見る日本人ボランティアに関心を持ってくれて、色んな話をしてくれました。

 

Qoriwayrachinaのコントロールポストのそばにある菜園。一部植林用の苗も育てている。きちんとした灌漑設備が整っており、収穫した野菜は私たちの食事になるだけでなく、安価で村民に販売している。



 

さらに村民の収入についてです。現在村ではマチュピチュ自治体主導でスポーツセンターの建設が進められており、村民の多くが男女問わずその建設現場で働いているそうです。しかし、雇用形態は日雇いで施工が完了する予定の1年後には彼らは職を失ってしまうことになるそうで、収入は安定していません。前述の通りアボカドを生産していたり、豚や牛を飼っていたり、養蜂をしていたりと、農業は行われていますが村内の需要を満たす程度でしかなく、安定した収入源とは言えなさそうです。森林を保全しながら、うまく資源を有効活用して彼らの生活の基盤となる産業を共に生み出す活動もしていきたいと考えています。

 

現在スポーツセンターの建設中の工事現場。岩や石が斜面から転がり落ちてくる環境で、性別問わず日中作業が行われている。工期は残り1年ほどの予定。



 

そして、都市部と比較して教育を受けるのが容易でないこと。村は50世帯ほどが暮らしているそうですが、54人の6歳〜12歳の児童が通う小学校が1つあるだけで、中学校(日本の中学校とは異なり5年課程で13〜17歳までが通う)に進学するためには都市部のクスコ(電車で約90キロの距離)かマチュピチュ遺跡のあるマチュピチュ村(電車で約30キロの距離)に通う必要があるそうです。教育機会に制限があり、学習意欲が高くても、お金も時間もかかってしまう進学ができる保証はありません。今回3日目に小学校の校外学習に引率しました。自然を楽しみながら片道1時間の山道を一緒に歩いて、遺跡を見学し、少しばかりゴミを捨てないことやこの村の自然資源の話をして、昼食を取ってレクリエーションをするというものでした。まだまだ家庭レベルでゴミの分別が出来ているわけではなく、先生方からは日本のゴミの分別を教えてほしいとの声も上がっていました。学校に訪問した時から子供たちは初めて見る日本人に大興奮で、道中も日本のことを尋ねてきたり、一緒に歩きたいからと手を繋いできたりと対応に大忙しでした。さらに遺跡では、建造物よりも私の周りに子供だけでなく先生も集まり、まるで自分がモニュメントのようになっていました。。。今回の遠足の引率を通して、彼らの純粋さに触れ、彼らが各々望む未来を手に入れられることを、心の底から願いました。そしてそれを実現する手伝いを、草の根レベルで2年間通しておこなっていくと心に誓いました。

 

小学校の校外学習の引率。子供たちに自然の大切さを同僚と伝える。



目的地の遺跡で、みんなで持ってきた飲み物やお昼ご飯を広げる。もちろん帰る前に、昼食のゴミだけでなく遺跡内の落ちているゴミをみんなで拾って帰る。



みんなで記念撮影。村の子どもたちの純朴さと笑顔を長きにわたって守り続けるための活動を2年間行っていきたい。



 

"土に根を下ろし、風と共に生きよう。種と共に冬を越え、鳥と共に春を歌おう。"

常に人で賑わう"天空の城"の近く。

"金の風"が吹く"聖なる谷"にある小さな村。

ここでは豊かな自然と純粋な人たちが静かに暮らしています。日本の価値観を押し付けることなく、日本の物差しで測ることもなく、彼らと共に、そして豊かなな自然と共に、そして自分も彼らの一部となり、彼らの土壌で2年間という短くも長くもない時間を一緒に生きていきこう。

そう強く思います。

 

 

https://www.instagram.com/kusetsuyoiman/

任地クスコでの焦燥感と満足感

クスコの中心街アルマス広場。町全体は静かだけどここは観光客も多く、ここが世界遺産の街であることを気づかせてくれる。



とうとう任地クスコでの生活が始まりました。
8月16日にクスコに赴任してきて1か月。すごく濃い1か月を過ごしたように思います。

 

リマ最終日の着任式。配属先の方々と初対面。各々5分間自己紹介のプレゼンを行った。



 

まずは日常生活。
クスコは標高3400メートルの高地にあるので、前日から高山病対策をしてクスコに向かいました。薬を飲んで準備万端と思っていても、やはり酸素が薄く呼吸がし辛いように感じました。幸い高山病になることはなかったものの、やはり急な坂道を登るときなどはすぐに息切れしてしまいます。さらに高地にあるため、朝夕は冷え込み、時には0度近くに下がる一方、昼間は日差しが強く気温も20度を超えるくらいまで上がります。日隔差がまさに20度・・・。こんな気候条件の厳しい街で、生活がスタートしましたが、この街は魅力で溢れています。そもそも世界遺産です。

 

息をのむほどの絶景。トレッキングに行ったときクスコ市街を見下ろす絶景を見て感動。



 

クスコの人はみんな優しく、ここで奥深い文化に触れながら彼らと2年間ともにできることが楽しみで仕方ありません。サッカーに誘ってもらったり、パーティーに招待されたり、また8月31日に誕生日を迎えた私に誕生日会を開いてくれたりと毎日が楽しいことで溢れています。

 

職場の同僚の自宅で行われたパーティに参加。初めてクイ(テンジクネズミ)も食べた。ペルーの人は踊りが大好きな人が多い気がする。。



 

職場の同僚とその友達とサッカー。さすが南米みんな足元の技術が高い。高地でのサッカーはさすがに体力が持たなかったけど、お膳立てもあって、何とか二得点。



職場とホストファミリーでそれぞれ誕生日を開いてもらった。こんなにも盛大に祝われたのは子供の時以来かもしれない。






一方で、月曜日から金曜日の平日は自宅から徒歩で15分くらいの距離にある事務所で勤務しています。午前中は主にデスクワークで、マチュピチュ歴史保護区での森林保全活動の報告書を読み込んで、これまでの背景を理解した上でこれからの活動計画を練っていました。知らない専門用語も多いので、少しずつ単語を調べたり同僚につたないスペイン語で尋ねたりという状況ですが、保護区が抱える問題を情報として少しずつ理解してきたように思います。午後は“現地語学訓練”としてJICAが準備してくれたスペイン語のクラスを職場で受けていました。地方都市なのでWi-Fiが必ずしも安定しているわけではなく困難もありましたが、ペルーでのスペイン語に慣れるためにも毎日真摯に取り組んでいたように思います。しかし、クスコ市内から活動地のマチュピチュ歴史保護区までは片道2時間かかってしまうため、この語学レッスンのために1か月間1度も保護区に行くことはできず、文章を通しての情報は入ってくるものの実情を自分の目で確かめることはできませんでした。一緒に渡航してきた同期はそれぞれの職場で本格的に活動をスタートさせているのを横目に、焦りを感じることもありました。こういった葛藤を職場の同僚に打ち明け、かなり励まされ、支えていただいたように思います。おそらく国際協力に対する思い入れはかなり強い方と自負しており、そんな中ですぐそこに活動地があるのに活動を本格化できないことへネガティブな感情を自分一人でコントロールすることは難しかったですが、今回の経験を通して「支援は一人でできない。誰かに支えられて、自分も誰かを支えられる。」ということを改めて実感したように思います。

 

職場でずっと読み込んでるマチュピチュ歴史保護区の保全計画が書かれた本。専門用語も多くて、なかなか難解。




そして先週9月13日に無事語学訓練の最後を締めくくる最終プレゼンテーションを無事終えることができました。自分の職種、私の場合は林業・森林保全分野に関する内容に関して10分間スペイン語でプレゼンを行い、質疑応答を5分間受けるというものです。専門的な内容をスペイン語で発表するというのは、初めてのことであり分からないことを同僚に尋ねたり、プレゼン練習に付き合ってもらったりして当日の本番に臨みました。テーマは“シロアリの生物学”。生態系の重要さを“1種類の生物”を例に共に考えるというワークショップを行いました。シロアリを選んだ理由としては、①シロアリは木材を食べることができる生物で、木造建築物の多い日本では森林科学分野で研究対象としている方が多く情報が多く蓄積されているため、②森林生態系において植物の繊維物質であるセルロースを分解できる生物は限られており、シロアリは森の分解者として生態系において重要な役割を果たすこと、③ネガティブなイメージを抱かれがちなシロアリは実は非常に面白い特性を持つ生物で、今世界が抱えている社会問題を解決しうるポテンシャルを持つこと、でした。これらの3つに関して説明を加えながら、オンライン開催ではありましたがクイズや質問を盛り込んだ参加型のワークショップを意識して内容を構成しました。まだまだ説明したいことをスペイン語でうまく伝えることが難しいことも多く、100パーセントの出来とはお世辞にも言えませんでしたが、それでもそれなりに面白くて、興味を持ってもらえるワークショップになったのではと自負しています。職場には生物学士や農学士が多いものの、生物学に馴染みのない観光学士や秘書もいますが、みんな僕のプレゼンが終わった後「Takaのワークショップすごくおもしろかったし、すごく勉強になったよ」と声をかけてくれて非常にうれしかったです。これからの活動の中でもおそらくワークショップを開くことはあると思いますが、今回の発表で少しばかり自信をつけることができました。焦燥感を常に抱えながらの1か月でしたが、励まし続けてくれた同僚とスペイン語クラスの担当講師、そしてこのような機会を与えてくれたJICAに感謝しています。

 

ペルーで初めてのTaller(ワークショップ)。テーマは"シロアリの生物学"っていうマニアックなものだったけど、なかなかに示唆に富んだ内容だったと自負している。もっとスペイン語能力が高ければ、よりよいTallerになったと思う。。改善あるのみ。



 

そしていよいよ今週からマチュピチュ歴史保護区での活動が本格的にスタートします。これからマチュピチュ保護区で新しい発見をし、色んな人と出会い、そしてともに活動ができることにワクワクしています。“マチュピチュ”を知っている日本人はきっと多くいて、実際に訪れてみたいという人も多いかもしれません。しかし、脚光を浴びているのは遺跡がメインで豊かな自然資源が広がっていることも、そもそも文化的側面だけでなく自然的側面も評価されて世界複合遺産に登録されたということも知っている人は多くないかもしれません。日本から派遣された青年海外協力隊員として、その自然資源をいろんな人に知ってもらいたいと思うとともに、土砂崩れ等の自然災害だけでなく森林火災など人的要因で劣化する生態系を守り、修復していく一端を担えたらと思います。おもに育苗施設の管理運営、植林の計画と実施、そして周辺住民への啓発活動がメインの活動になる予定です。これからまだまだ予期せぬ壁にぶつかると思いますが、周りの助けも借りつつ一歩一歩着実に進んでいきたいと強く思っています。

 

毎週土曜日は市街散策。決して大きな街ではないけど角を曲がるたびに新しい発見のある街、クスコ。ここに来られて本当に満足。



日本の反対側で終戦の日に何を想うか

8月15日。

日本に居たら、新聞やテレビで戦争の記事や特番を目にし、平和について考えざるを得ない一日。

今年は地球の反対側の南米ペルーでこの日を迎えました。私の知る限り現地のテレビ番組でこの話題が取り上げられていないように思います。しかし私も国際協力の世界に足を一歩踏み入れた人間で、平和について考える機会も多々あります。

もともとの私の認識として、「紛争や貧困で生命の危機にある人々に支援を行う」のが”人道支援”で、現在のウクライナ侵攻においてもこういった支援にスポットライトが充てられる機会が多いと感じています。一方で”開発援助”は「そういった緊急事態から脱した後、現状を向上させていくための支援」と捉えています。
JICAの青年海外協力隊事業は、どちらかというと"人道支援"よりも"開発援助"に軸を置いた支援ですが、ペルーに来てからもこの2つの言葉に関して考えさせられる機会も多いです。ペルーに来てからの2週間を振り返りながら、ちょっとずつ綴らせていただきたいと思います。

 

SurquilloのMercado(市場)。ペルーは果物の種類が豊富で値段も廉価。

 

この2週間は、一通りのオリエンテーションと語学学校の対面式授業等で忙しく過ごしました。オリエンテーションでは、この国での安全対策や健康管理、活動の詳細等の説明を受け、少しずつペルーでのこれからの生活に順応していこうとしています。

また、語学学校は2日間はスクーリングで、現地の先生のスペイン語の集団授業を受けました。接続法現在形の文法事項を学びながらディスカッションをさせてくれる。割と好きな授業の進め方だなあ、と思っていたらあっと言う間に2日は過ぎてしまっていました。その後の2日間は校外学習として現地の公共交通機関メトロポリターノを利用し、セントロ(旧市街地)とミラフローレス(新市街地)の散策。現地の生活に少しずつ慣れるためのトレーニングも兼ねながら、先生からペルーの文化や歴史をスペイン語で教えてもらうよい機会でした。現地の方との会話の中で文化背景や慣習がわかっていなくて、どういう意図で聞いてくるのかわからない質問もいくつかあったのでこういう時間は大事にしたいと考えています。

 

CentroのPlaza Mayorにて語学学校の先生や同期隊員と一緒に。



一方で、空いた時間や休日にはリマの街をぶらりと歩き回りました。

色んなところに一人もしくは同期隊員や、駒ケ根訓練所の時の同期と一緒にまわりました。

駒ケ根同期と一緒に国立博物館へ。

Lima在住のスペイン語の先生のお家へ。駒ケ根訓練所退所後、オンラインでスペイン語だけでなく、ペルーの文化も教えてくれた。


ここで少し冒頭に話を戻しますが、道を歩いていると物乞いや路上や道端でお菓子を売る人を頻繁に見かけます。こういった行為が条例で禁止されているエリアもあるそうですが、こういった光景を見ない日はありません。民族衣装を着た原住民族の方やベネズエラ人の方も多いようです。首都リマの中でも収入の高くない地域もあり、治安が悪く近づかない方がいいと言われた地域もあります。旧市街に校外学習で言った際には、川の向こう側のRimacという地域にスラム街が見えました。貧富の格差を目の当たりにして、彼らに対しては今なにもできない自分に無力さも感じています。
派遣されるまでの待期期間、難民支援に関わるしごとをしていたため、ベネズエラ難民のことも耳にする機会は多くありました。実際、彼らの近くにいても今は何をしていいのか、何ができるのかはわからりません。

 

街を歩いていると時々ベネズエラ料理を目にする。ベネズエラからの移民も多いそうだ。写真はベネズエラ料理のアレパ。

 

明日には任地に向かうことになりますが、任地での活動ではマチュピチュ歴史保護区に住むアンデスの原住民の方を対象に活動する機会も多いです。
地方の住民は未だに首都と比べると教育機会も均等ではなく、平均収入も都市部よりも低くなる傾向があるそうです。(語学の先生曰く、地方の一握りの優秀な生徒に対しては高等教育を受けるための奨学金制度もあるそうです。)

現地での活動では、彼らの話をよく聞き、彼らと同じ目線に立って活動を進めていくように努めたいと考えています。そして、協力隊員としての活動とは異なりますが、自分が1年間日本で難民支援に関わったということもあって、なんらかの形でベネズエラ難民の方々への支援にも関われないかと夢想しています。

 

かつてJICAの理事長も務めたこともある、日本人初の国連難民高等弁務官 緒方貞子さんは、「”人道支援”と”開発援助”の差はスピードだ」とおっしゃったそうです。
リマで無力感にさいなまれたのは、今この瞬間も貧困にあえぎ、その日の生活を担保されていない人々に何もできないからです。彼らに”いち早く”大量の物資を届けるようなことは、今できません。
しかし、これから2年間任地クスコでは、”少し時間をかけて”彼らが現状から向上するためのお手伝いをさせてもらいます。
この2年間ペルーで目の前のことに全力で取り組むと同時に、自分の先の人生で迅速に命の危機に瀕する人々に支援を届ける力も得たいと思います。
人道支援”と”開発援助”どちらも国際協力において必要不可欠ですが、この2つを二項対立で独立した支援として考えるのではなく、それらの2つをシームレスに実施できるような支援ができる人間になりたい。

 

Miraflores地区の海岸。見えるのは太平洋。そのずっと先には日本があって、世界はつながっていることを改めて認識させられる。


日本人が平和を考える日に南米ペルーで、”自分が世界平和にどう貢献したいか”を考える。

冷静な頭と熱いハートを持って、これからのペルーでの2年間もその先も懸命にいきたい。