私が好きな詩人、谷川俊太郎さんの作品に「ここ」という詩があります。
「ここ」
どっかに行こうと私が言う
どこ行こうとあなたが言う
ここもいいなと私が言う
ここでもいいねとあなたが言う
言ってるうちに日が暮れて
ここがどこかになっていく
(谷川俊太郎「ここ」より引用)
本来は恋人同士がダラダラと過ごしている時間こそが大事な時間だ、という解釈が正しいのかなと思います。
少なくとも私は日本に居た時そういう読み取り方をしていました。
しかし、ここペルーで約4ヶ月を過ごし、少しずつ感性に変化が訪れる中でこの詩の捉え方が少しずつ変わってきたと感じていたので、この感性の変化になぞらえて久々の投稿を綴っていきたいと思います。
さて、投稿をしていなかったこの1ヶ月半ほどだけでも沢山の出来事がありました。
マチュピチュ遺跡とワイナピチュを訪れ、ホストファミリーに寿司を振る舞い、保護区の村の道路の竣工式に参加しクイを食べ、農業灌水省の方を講師に招いた農業ワークショップに参加し、温泉に行き、苗の世話をし。。。
色んな経験をしていく中で、11月初旬、JICAに第一号報告書を提出する時期となりました。
この報告書では赴任して3ヶ月のタイミングで、任地へ赴き自分の目でその村を見て、何が問題で、どう対処していくべきかを報告する書類です。
この書類を作成する中で、今一度自分が見たもの感じたことを整理し、今何を考えているのかを言語化できたので、今回の投稿は私の考えの変遷のマイルストーンにさせていただけたらと思います。
私が活動する村周辺では火の不始末や農業生産性を短期的に高めるための野焼きを原因とした森林火災が多発する地域であり、森林生態系の劣化も激しく、植林を通じた生態系の修復が必須ということで、私の仕事の要請はなされたという背景があるそうです。
実際この村に来て野焼きを目にし、森林火災を目にし、そしてよく周辺地域でも森林火災が発生したというニュースを耳にします。
私が為すべき仕事の一つであり、要請の主な内容でもあるのはやはり植林活動でしょう。
幼少期から国際協力に興味を持ち、海外でも活かせる武器を身につけたいと考えていた私は大学・大学院で森林科学という分野を専攻していました。
この分野をダイレクトに活かせる活動でもある植林は、失われていく森林を修復する唯一の手段であり、もちろん私もこの課題に真摯に取り組んでいくつもりです。自分が知る限りの知識をフルに動員し、この2年間で"宮脇方式"というメソッドを通じた植林活動を少しずつ行なっていきたいと考えています。文献を漁ってもペルーでの実例が無い上に、乾燥林での実施例もあまり多くないため、何度も壁にはぶつかるかと思います。しかし、心強いことに私の周りには経験と知識のあるカウンターパートやパークレンジャーがいます。話し合いをしながら、出来ることから着々と進め、生態系修復に貢献したいと考えています。
一方で、失われていく森林に対して応急処置的に植林を行うだけでは「イタチごっこ」に終始してしまうとも考えています。
やはり、そもそも森林火災を発生させないシステムを構築していくことこそが大事と感じています。
その中ですべきことは、火の不始末や火元ともなり得る山中へのゴミのポイ捨ての改善と、野焼きをしている原因への対処でしょう。
まずは前者、やはり環境モラルの向上は必須です。
タイミングよく村にゴミの圧縮機が導入される予定で、圧縮されたゴミは業者が買い取ってくれるので、まずはペットボトルゴミの分別から始めて、現金を得ることから初めていきたいとおもいます。
また、お金にすることはできませんが、意識の向上のために、まだ価値観の形成途上の村の子どもたちに環境教育を行いたいと考えています。
自分は木材を学んできた身ですし、そもそも派遣分野も林業・森林保全です。なのでこの分野を軸に、日本の「木育」から着想を得てまずは村の学校で「図工」の授業ができたらいいなと考えています。現在学校のカリキュラムに「図工」は組み込まれていません。村の自然の風景を写生し、そして自然の材料を使って工作し、自然に触れる機会を増やすことで少しずつですが環境モラルを増成に貢献したいと考えています。
ただ原生種の木材は伐採禁止なので、木工においてはかつて人工的に植林されたユーカリを使うことを検討しています。「なぜユーカリは切って良くて、原生種はダメなのか」について一緒に考えることもまた、一つの環境教育となるでしょう。
そして、後者。野焼きに関して。伝統的に行われてきている手法で、翌年の農作物の収量を上げるためにも有効だからこそ代々行われてきていたのだと思います。外から来た私がいきなり「野焼きはダメ、野焼き禁止」ということ自体に全く意味が無いのは自明で、そもそもなぜ野焼きが行われているのかを考えることから始める必要があると思います。
なぜか。やはり以前の投稿でも少し触れましたが、この村に産業が少ないことは大きな要因の一つでしょう。
観光客が多く訪れるマチュピチュ歴史保護区にありながら、メジャーな観光ルートからは外れ、現金収入は限られます。農業や牧畜も行われていますが、自給自足から殆ど足の出ない程度のものです。主な収入源は自治体や省庁が発注する事業における日雇い労働で、現金収入の安定性はありません。
自分たちの食糧を作るのはもちろんなこと、現金化できる作物の生産は彼らにとって重要で、その中で経済的な負担も少なく、手間もあまりかからない野焼きという手法が取られてきたのは頷けます。
また、日本の植林だと最終的には木材生産に直結し現金化することが可能ですが、私が活動する保護区での植林となると原生種の木が大きくなっても伐採することは禁止されており現金化することはできません。
彼らに山を守るために野焼きはやめて、一緒に森を守ろうと、自分の与えられた命題だけに注視して活動を進めようとしたところで、彼らにとってメリットはなく、むしろ彼らの生活を脅かすことにも繋がります。
その中で、私が考えることは森林保全と相性の良い「養蜂」を基盤とした村民の生計向上です。
なぜ「養蜂」か。
まずはこの村の気候です。一年を通して比較的気温が一定で蜜源となる花が一年を通して咲いているため、通年で収穫が可能です。作業も比較的シンプルで、日雇い労働と並行して行うことも可能そうです。そして、実際にこの村に数軒養蜂を行っている家庭もあり、そのうち一軒はある程度大量に生産し、経験と知識も持っています。既にいる養蜂家をモデルに、周りに水平展開していくことができそうと考えています。
また、森林保全との相性に関しては、蜂は植物の花粉を媒介するため、原生種の繁殖が期待できます。さらに果樹を生産している方もいるので、果樹の受粉にも貢献でき、彼らにとっても経済的メリットがありそうです。
そして私が最も注目している点は、山中で放畜行われているのですが、このエリアでは森林火災が発生していない点です。彼らの自身の産業を守るためにそのエリアでの火の扱いは慎重になります。仮に養蜂を推進すると、養蜂エリアにおいても同様に火の扱いが慎重となり、延いては森林火災の予防となることが期待できます。
以上の点から養蜂の推進を目指しているわけですが、課題もたくさんあります。そもそも私自身に養蜂の知識はありません。
初期投資は1蜂群と養蜂箱のセットで1万円ほどですが、数セットの購入のために現金をすぐに用意できる方は決して多くないでしょう。
コロナ禍以降、ペルーではハチミツが健康に、特にコロナ対策に良いと考えられ価格が高騰しています。現在の売価であれば最初の3ヶ月収穫で、初期投資分を賄えるだけでなく収益も生まれます。マイクロクレジットやNGOからの助成金も考慮に入れつつ、どうやって揺籃期へと持っていくか工夫が必要となりそうです。
そして次に「どうやって高付加価値化して売るか」です。現状では一番生産量の多い養蜂家は自身でマチュピチュ村まで運び卸しているそうです。実際にマチュピチュ村に訪れてみると、お土産物屋では売られておらず、主に村の住民が買い物をする市場でのみ、スーパーと変わらない売価で、ラベルも貼られずに売られていました。
ペルー国内でも、マチュピチュ歴史保護区内で作られた蜂蜜が売られていることは殆ど無く、売り方次第では売価を上げて高付加価値化することも可能と考えています。
私は大学院卒業時に、国際協力をするためは関連住民がインセンティブを得るためにも現金化するスキームが必要になると考え、自分の専門とは少し離れて文系就職しました。その時は自分の選択に迷いもありましたが、奇しくもこうして、自分の経験を活かせる可能性を見出すことができ、あの時の自分の選択が間違っていなかったことを確信しました。
どこまでできるか未知数ですが、養蜂業の推進で少しでも村の人が、副次的に現金を得るためのお手伝いができたら良いなと考えています。
なぜ私が、植林だけで無く、他のことにも取り組もうとするか。
要請書を読み込んだ際、与えられた職務は「劣化する森林生態系を修復するための植林」ではなく、「森林生態系の劣化への課題解決」だと捉えました。"手段"と"目的"は混同してはいけません。あくまで"目的"は「森林生態系の劣化への対処」であり、「植林」はそのうちの一つの"手段"でしかないと捉えています。
職種もあくまで形而的に与えられた枠組みでしかないと考えているので、垣根を越えてでも"目的"を遂行するための取り組みを行っていきたいと思っています。
そして、なぜ、その枠組みを越えた活動中でも「村民の生計向上」と「子どもへの教育」といった、人にフォーカスした活動を行おうとするのか。それはマチュピチュ歴史保護区で活動し始めた時に目にしたあるものが理由です。
私の活動する村クオリワイラチナは保護区の入り口から6キロ離れており、また車道が無いため保護区の入り口からでも徒歩か数時間に一本の電車でしか移動することができません。
一方で入り口の村ピスカクーチョは車で来ることも可能で、尚且つインカ道のトレッキング客の入場口も兼ねているので、人の往来もそこそこあります。
どちらの村もマチュピチュ村や州都のクスコにに比べると産業は限定的で、確かに物質的に豊かとは言えません。
どちらの村にも訪れる中で、あることに気づきました。ピスカクーチョの村の子どもたちは底のしっかりした靴を履いており、中にはアシックスやアディダスのロゴの入った靴を履いている子どももいます。一方でクオリワイラチナの村の子どもたちはOjota(オホタ)と呼ばれる廃タイヤなどのゴムを材料としたサンダルを履いている子どもも見受けられます。
たった6キロしか離れていない村で、なぜ履いている物が違うのか。自分はそのギャップを少しでも埋める活動をしたい。その想いから、今の計画を立案しました。
もちろん、自給自足で生活している人も多いクオリワイラチナと、都市へのアクセスも比較的容易なピスカクーチョでは貨幣経済の在り方も異なっており、一概に現金の必要性を同等と考えることは正しいとは思いません。
しかしながら、こんなに近距離で違いがあることに歴然とし、自分はこの2年間彼らの出来る限りのことをしたいと強く思うようになりました。
冒頭の「ここ」の詩に話を戻しましょう。
詩における、"私"は私自身で、"あなた"はクオリワイラチナの村と村の人たちです。
この村がどう進んでいくのが良いのか、今"私"は"あなた"に問いかけている段階です。
2年という限られた期間で、なおかつ私の限られた能力で、自分の掲げる"目標"を達成できるということはないでしょう。少しずつ、自分のできる小さなことを積み重ねているうちに、日が暮れて帰国の日を迎えるのでしょう。
「ここ」が「どこか」になるとき。私はきっともっとこの村が好きになっているのだと思います。私はこの村を「どこか」に導ける手伝いをしたい。
その「どこか」はなるべく遠く高いところだといいなあ、と思います。
そして、日が暮れた後はきっと、誰か私の意志を継ぐ人がきっとこの村をさらに「どこか」もっと遠くに導いてくれるのだと思います。
限られた期間しか関わることのできない自分、焦ることも悲しいことも悔しいことも、残りの期間たくさん経験すると思います。
辛いことがあっても、この村が好きだから、この村のためにできることだけでも頑張りたいなあ、そう思うのです。