マチュ・ピチュ-アルトマヨの森奮闘記

青年海外協力隊2022年7次隊として、林業・森林保全分野でペルーに派遣されました。クスコ州のマチュピチュ歴史保護区で森林保全活動をしていましたが、情勢悪化に伴いサン・マルティン州のアルトマヨの森保護区に任地変更となりました。自分が将来過去を振り返るための備忘録も兼ねて、日々の活動をボチボチ綴っていこうと思ってます。時々暑苦しい文章になるかもしれませんので、ご承知おきください。

旅行記 Capítulo 4 ~バングラデシュ・ダッカ&シレット~

バングラデシュ

きっとなんとなく耳にしたことはあるものの、どこにあるのか、どんな国かを知っている人は決して多くないのではないでしょうか。

 

ダッカ市内にあるヒンドゥー教寺院、ダケシュワリ寺院。ダッカの名前の由来でもある。ダッカで最も訪れたかった場所。




日本人が観光のための旅行先に選ばない国に行くことは、逆に周りの人がほとんど知らない世界を知る機会と捉えていました。なので、私の行く国は決して有名ではない国も多かったように思います。
ただ、物見遊山で無駄に大枚をはたいて海外旅行に行くことはしたくなかったので、どの旅行に行く際も”何を見たいか”、”何のために行くか”目的意識を持って、旅に出かけるよう心がけていました。

 

オールド・ダッカ(旧市街地)にあるピンクパレス。ダッカの数少ない観光地だが、それでも外国人はほとんど見かけなかった。




では、なぜバングラデシュに行ったのか。
バングラデシュは南アジアにある国で、かつては”アジア最貧国”と呼ばれていました。
しかし近年、人口増加と繊維業をはじめとする産業の誘致、さらにグラミン銀行創設者ムハメド・ユヌスによるマイクロクレジット制度等により、経済成長が著しいことで知られています。しかし、未だ貧困が根絶されたわけではなく、またミャンマーからロヒンギャ難民も流入しています。

また2016年7月1日には首都ダッカのグルシャン地区にて、JICA関係者の日本人7人を含む22名が犠牲となる、テロ事件も発生しました。

経済成長著しく、また一方でまだまだいろんな社会問題も渦巻く国。バングラデシュ

2019年のJICA春募集で合格を頂いていた私は会社の休暇制度を利用して、この国の現在を見に行くことにしました。

 

ダッカ・レストラン襲撃人質テロが起こった場所、the Holey Artisan Bakeryの跡地。ここグルシャン地区は各国大使館なども並ぶ、テロが起こることも想像できないような静かなエリア。ここで22名の尊い命が奪われた。きっと志半ば、悔しい想いだったと思う。少しでも彼らの意志を継ぎたい。

 

 

 

仕事後そのままセントレア空港に直行した私は、タイ航空バンコク経由で、2019年8月1日首都のダッカに降り立ちました。空港から出た瞬間の熱気と人の多さに圧倒されたことをよく覚えています。

有名な日本人宿"あじさい"にチェックインし、荷物を置いたのちダッカ国立動物園を散策しました。

日本人、というより外国人がそもそも珍しいのか、すれ違う人が皆声をかけてきて、時には一緒に写真を撮り、有名人になった気分です。

動物そっちのけで、私の方に寄ってくるその愛嬌に魅了され早速バングラデシュの魅力に取り憑かれてしまいました。

 

ダッカ国立動物園にて。外国人が珍しいのか、たくさんの人が一緒に写真を撮ろうと声をかけてくる。それよりも動物見てくれー!



ダッカの有名な日本人宿、”あじさい”にて。一階には日本食レストラン”ながさき”があり、このレストランが当時バングラデシュのプロサッカーチームのスポンサーをしていたそうで、シャツをいただいた。



 

ダッカの中心地には立ち寄らないまま、国内線でシレットという街に向かいます。

シレット管区はインドのアッサム地方に隣接しており、紅茶の産地です。また、海外、特にイギリスへ働きに出ている方も多いそうで、バングラデシュの中でも比較的豊かな人が多い地域だそうです。

それでも、郊外には上半身裸でかなり原始的な生活をする人、街には物乞いをする子供。この国の歪さを感じずにはいられませんでした。

 

Novo Airにて、ダッカ-シレット間を移動。初めてのプロペラ機。若干の恐怖心と共に搭乗。



シレットのハズラト・シャフジャララ・マザル・シャリフ・モスク。一日中歩きまわってへとへとに。まぶしそうな顔がすべてを物語る。



 

川沿いには洗濯を手でする子供たち。家の手伝いをすることはすごくいいことだと思います。しかしそれ故に勉強の機会が阻害される、もしくは金銭的理由で学校に行けず、妹や弟の世話、家事をせざるを得ないという背景も持った子供たちも沢山います。

彼らが望めば学業に専念できる環境を作るために自分が出来ることはあるだろうか、少なくとも今は何もできない。出来ないことの多さを目の当たりにする度に傷つき、そしてその感情をバネに"いつか世界を変える力になる"ために努力を怠らないことを誓います。

私にとって旅は、美味しいものを食べる、綺麗な景色を見る、歴史に触れる、だけではなく自分を奮い立たせるためでもあります。

 

お世辞にもきれいとは言えない水で洗濯をする子供たち。




 

再び国内線にてダッカに戻ってきた私は、今度はダッカの中心地に滞在しました。モディジールという市街地をリキシャに乗って駆け抜けます。リキシャの鈴の音がどこか哀愁漂う雰囲気を醸し出し、人混みをかき分けながら得体の知れない迷宮に誘うように感じました。

どこの角を曲がっても、人、人、人。インフラが脆弱なため常に交通渋滞が発生し、排気ガスの量も尋常ではありません。さらに街のあらゆるところにゴミが無造作に放置され、悪臭が漂っている場所もあります。大きな人口を抱えるこの灼熱の街はやはりどこか歪です。

 

車道はリキシャ、歩道は人で溢れかえっている。リキシャの鈴の音にいざなわれて、混沌の街ダッカに迷い込む。



一杯約6円ほどの紅茶。コップはトレイに張ったお湯で飲み口を軽くすすぐだけ。衛生面は心許ないが、味は紅茶の有名な産地だけあっておいしい。



 

そして旧市街地のオールド・ダッカイード(ラマダンの終了を祝う祝日のことで、日本のお正月のように地元に帰省する人も多い)の直前で、貧しい方へも振る舞われるための牛が街中に溢れかえっており、楽しいお祭り気分の箇所もありました。(牛糞が道路に広がっていましたが、気にしてはいられなかったのでしっかり踏みながら目的地に向かいます。。。あとで宿で綺麗に靴を洗いました。。。)

 

イード直前だったため、オールド・ダッカは人だけでなく、祝祭用の牛もたくさんいた。



 

たしかに豊かとは言えないこの国ですが、イスラム教徒がほとんどの彼らは、五行の一つでもある貧しい方に対しての喜捨(ザカート)が習慣づいており、分け合う精神が根付いているように感じました。果たして日本はどうでしょうか。

日本も相対的貧困の問題がクローズアップされる機会が増えました。高い物価に釣り合わない収入の方々も多く、助けを必要としている方も多いでしょう。ただ、周りとの関わりを持ちたがらず、困っている人に目を向けようとしない。そういう人が増えてきているように思います。

海外の国々を見聞し、外から日本を見ることで見える景色もあると思っています。

JICAからの合格通知も手にし、これから国際協力の道に足を踏み入れようとする自分を奮い立たせるための旅でした。このタイミングで、経済発展と数多の社会問題が表裏一体のバングラデシュで、ゆっくりと考えを深めることができたのは、非常に有益なことだったと思います。海外の問題も日本の問題も沢山あると思います。そのどちらにもアプローチできる力をつけることこそが"いつか世界を変える力になる"ことなのだと思っています。

 

この街で一人きりになれる場所なんてないんじゃないか、と思うほどの人の多さ。そして道端には物乞いをする人もたくさんいて、貧困ビジネスも横行していることを耳にした。



 

ペルーに来て2ヶ月。自分の出来ないことの多さに改めて向き合い、辛酸を嘗めながら、反骨心で日々を精一杯もがき続けています。

"いつか"という悠長な言葉は好きではありませんが、それでも私はその"いつか"に向かって着実に一歩一歩近づいている。そう信じています。