マチュ・ピチュ-アルトマヨの森奮闘記

青年海外協力隊2022年7次隊として、林業・森林保全分野でペルーに派遣されました。クスコ州のマチュピチュ歴史保護区で森林保全活動をしていましたが、情勢悪化に伴いサン・マルティン州のアルトマヨの森保護区に任地変更となりました。自分が将来過去を振り返るための備忘録も兼ねて、日々の活動をボチボチ綴っていこうと思ってます。時々暑苦しい文章になるかもしれませんので、ご承知おきください。

"世界を変えてきたのはいつのときもたった一人の強く熱い想いがあるから"

配属先の国家自然保護区管理事務局マチュピチュ歴史保護区のメンバーで。専門家も、パークレンジャーも学生インターンも一緒にマチュピチュ村のパレードに参加した。私は中腰右側。



日本で28年間生きてきて、行進をする機会なんて年に1度の運動会くらいしかなかったと思います。しかし、ここにきて1週間で2度行進をするという稀有な経験をしました。まず9月24日、ペルーの観光の日にクスコの中心地、アルマス広場にて。

 

9月24日、観光に日にクスコ事務所のメンバーでパレードに参加。

世界遺産の街クスコの中心地、アルマス広場でのパレードに参加できるのはこの街で働いているからこそ。とても貴重な経験をした。

 

そして9月29日、La Municipalidad Distrital de Machupicchu(マチュピチュ地区自治体)の81周年の記念式典に、マチュピチュ遺跡で有名なマチュピチュ村(アグアスカリエンテス)にて、参加しました。配属先はマチュピチュ歴史保護区の自然の保全を担う環境庁管轄の組織で、両方の式典に招待されていました。

 

9月29日、マチュピチュ地区自治体の81周年記念式典に参加。パレードでは旗持ちを務めた。

どちらのパレードにおいても自分自身が行進したのは5分ほどであっけなく終わりましたが、マチュピチュ村でのパレードでは旗持ちをさせてもらい、なんとなく自分も配属先の一員に慣れた気がします。マチュピチュ村のコントロールポストでも、式典前後にパークレンジャーや専門家、学生インターンの方々が各々私に”Taka”もしくは”親しみを込めて”Takita”と呼んで話しかけてくれて、現地語のケチュア語を教えてくれたり、逆に自分も簡単な日本語や日本の文化などを教えたりと、円滑なコミュニケーションが図れるようになってきました。

 

マチュピチュ村のコントロールポストの奥側の景色。この山の奥に有名なマチュピチュ遺跡がある。今回は時間がなくて登れなかったが、次回こそは。

 

 

しかし。一対一での会話、特に日常会話でわからないということはほとんど無くなってきたもののやはり会議や専門的な会話においてはまだまだ自分のスペイン語の能力不足を痛感することも多く、悔しい思いをすることも多いのが実情です。2年半前の駒ケ根訓練所での派遣前訓練で初めてスペイン語の学習をはじめ、その後の派遣待期期間も自学でスペイン語の勉強は継続し、DELE(スペイン語能力試験)のB1(中級レベル)も合格したうえで渡航してきていたので自信を持って渡航してきていましたが、自分がスペイン語でこんなに悔しい思いをすることは正直あまり想像していませんでした(準上級のB2も受験しましたが、読解・記述パートで2ポイント足らず不合格に…。ただOralは満点だったので、それなりに会話にも自信がありました。)。配属先の専門家はBiólogo(生物学者)、Agrónomo(農学者)、Licenciado en Turismo(観光学士)などの敬称を付けて呼ばれることが多く、それぞれ高い専門性をもって仕事に取り組むことが求められます。農学修士を取得している私も、まがいなりにもAgrónomo(農学者)ということなります(便宜上、生物学者・農学者という単語を使っていますが、皆博士号を持っているわけではないので、日本語としてどの単語が適切なのかわかりません)。しかしスペイン語能力においてまだまだ専門的な会話をするに追いついていない自分は、少なくともAgrónomoとしての役割を果たせていないと感じています。そんな私はまだまだ組織内においては珍しい外国人のマスコット的存在でしかなく、活動において配属先の期待に応えられていません。まだまだ活動も始まったばかりで、今は“問題点を見つける”、“配属先において必要な知識を習得する”段階であるものの、やはり“早く貢献したい”、“いつまでもこのままの認識では2年間で何もできない”という想いが先行します。協力隊事業は人材育成の側面もかなり強いので、きっと大きな成果が求められているわけではありません。しかし、それは“何もしない”もしくは“何も成し遂げなくていい”言い訳になってはいけないですし、応援してくれている人や優しく迎えてくれる同僚に対して自分の貢献で返したいという想いもあります。そして、もちろん協力隊終了後に見据える自分の未来のためにもここで何か爪痕を残したいとも思っています。

 

マチュピチュ村のモニュメント。現在は観光客も戻ってきて町は活気づいていたが、観光客は欧米からがほとんどで、今回日本人は見かけなかった。



 

「悔しさを抱えながらも自分は常に前に進みたい。」
そういう感じるときに、思い出す曲のフレーズがあります。

 

"世界を変えてきたのはいつのときもたった一人の強く熱い想いがあるから"

 

私は2019年の春に青年海外協力隊に応募しました。新卒で入社したニトリでの仕事にも慣れてきた頃で、このころにはできることの幅も少しずつ広がってきていました。もともと大学・大学院では森林科学という分野を専攻していた私ですが、かねてより国際舞台なおかつ国際支援の分野で活躍することを志していた私には“自分の持っている知識を駆使してマネタイズする”という能力が不足しているように感じていました。したがって成長企業で、かつ木材製品の家具をはじめとする様々な商品を製造・物流・小売という一気通貫のシステムをもって販売するニトリに魅力を感じ入社を決めました。ニトリでの仕事は楽しく、成長も感じていました。しかしもともと自分のキャリアの一つの通過点として設定していた青年海外協力隊には、仕事が楽しいと思えないときにまるで逃げるかのように参加したくない、そして青年海外協力隊のその先にある自分のキャリア、外務省を通じて国連に派遣されるためのJPO試験に年齢制限がある、ということも加味してこのタイミングでの応募を決意しました。もちろん迷いもありましたが、この時のJICA青年海外協力隊の募集を募るCMのフレーズ“いつか世界を変える力になる”とそのテーマ曲が自分の背中を強く押してくれました。

 

自分の活動の振り返りと、今後の活動を合理的に計画するために自作の週報を作成。ニトリで働いていた時に叩き込まれた観分判(観察・分析・判断の略。気になる方は下のリンクの参考にどうぞ。)に基づいた項目を設定。ニトリで学んだことはこの先も私の武器になる。

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比較的強い表現の“いつか世界を変える力になる”というフレーズ。

そしてテーマ曲の倉木麻衣の“きみへのうた”の1フレーズ。

"世界を変えてきたのはいつのときもたった一人の強く熱い想いがあるから"

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「自分は協力隊に参加し、そこで研鑽を積んで“世界を変える力”になりたい。そしてその“強く熱い想い”をぶつけ続けられるような日常が欲しい。」そういう想いを駆り立ててくれました。
当時も今も所詮一端の若造でしかありませんが、“強く熱い想い”がなければ何かを成し遂げることはできません。自分にできることはきっと大きなことではありませんが、“強く熱い想い”を持ち続けながら、今のペルーでの活動も、その先も駆け抜けていきたい。そう強く思います。

マチュピチュ村の早朝4時半。この時間にJICA国際協力JOBセミナー「スペイン語を活かして中南米で働く」にオンライン参加。自分のキャリアパスを今一度考える機会となった。

 

おそらくこの2年間もっと、自分の足りないものの多さに気づき、悔しい思いをたくさん経験します。そんな時はまた、このフレーズを思い出して前に進んでいくのでしょう。

 

"世界を変えてきたのはいつのときもたった一人の強く熱い想いがあるから"