マチュ・ピチュ-アルトマヨの森奮闘記

青年海外協力隊2022年7次隊として、林業・森林保全分野でペルーに派遣されました。クスコ州のマチュピチュ歴史保護区で森林保全活動をしていましたが、情勢悪化に伴いサン・マルティン州のアルトマヨの森保護区に任地変更となりました。自分が将来過去を振り返るための備忘録も兼ねて、日々の活動をボチボチ綴っていこうと思ってます。時々暑苦しい文章になるかもしれませんので、ご承知おきください。

日本の反対側で終戦の日に何を想うか

8月15日。

日本に居たら、新聞やテレビで戦争の記事や特番を目にし、平和について考えざるを得ない一日。

今年は地球の反対側の南米ペルーでこの日を迎えました。私の知る限り現地のテレビ番組でこの話題が取り上げられていないように思います。しかし私も国際協力の世界に足を一歩踏み入れた人間で、平和について考える機会も多々あります。

もともとの私の認識として、「紛争や貧困で生命の危機にある人々に支援を行う」のが”人道支援”で、現在のウクライナ侵攻においてもこういった支援にスポットライトが充てられる機会が多いと感じています。一方で”開発援助”は「そういった緊急事態から脱した後、現状を向上させていくための支援」と捉えています。
JICAの青年海外協力隊事業は、どちらかというと"人道支援"よりも"開発援助"に軸を置いた支援ですが、ペルーに来てからもこの2つの言葉に関して考えさせられる機会も多いです。ペルーに来てからの2週間を振り返りながら、ちょっとずつ綴らせていただきたいと思います。

 

SurquilloのMercado(市場)。ペルーは果物の種類が豊富で値段も廉価。

 

この2週間は、一通りのオリエンテーションと語学学校の対面式授業等で忙しく過ごしました。オリエンテーションでは、この国での安全対策や健康管理、活動の詳細等の説明を受け、少しずつペルーでのこれからの生活に順応していこうとしています。

また、語学学校は2日間はスクーリングで、現地の先生のスペイン語の集団授業を受けました。接続法現在形の文法事項を学びながらディスカッションをさせてくれる。割と好きな授業の進め方だなあ、と思っていたらあっと言う間に2日は過ぎてしまっていました。その後の2日間は校外学習として現地の公共交通機関メトロポリターノを利用し、セントロ(旧市街地)とミラフローレス(新市街地)の散策。現地の生活に少しずつ慣れるためのトレーニングも兼ねながら、先生からペルーの文化や歴史をスペイン語で教えてもらうよい機会でした。現地の方との会話の中で文化背景や慣習がわかっていなくて、どういう意図で聞いてくるのかわからない質問もいくつかあったのでこういう時間は大事にしたいと考えています。

 

CentroのPlaza Mayorにて語学学校の先生や同期隊員と一緒に。



一方で、空いた時間や休日にはリマの街をぶらりと歩き回りました。

色んなところに一人もしくは同期隊員や、駒ケ根訓練所の時の同期と一緒にまわりました。

駒ケ根同期と一緒に国立博物館へ。

Lima在住のスペイン語の先生のお家へ。駒ケ根訓練所退所後、オンラインでスペイン語だけでなく、ペルーの文化も教えてくれた。


ここで少し冒頭に話を戻しますが、道を歩いていると物乞いや路上や道端でお菓子を売る人を頻繁に見かけます。こういった行為が条例で禁止されているエリアもあるそうですが、こういった光景を見ない日はありません。民族衣装を着た原住民族の方やベネズエラ人の方も多いようです。首都リマの中でも収入の高くない地域もあり、治安が悪く近づかない方がいいと言われた地域もあります。旧市街に校外学習で言った際には、川の向こう側のRimacという地域にスラム街が見えました。貧富の格差を目の当たりにして、彼らに対しては今なにもできない自分に無力さも感じています。
派遣されるまでの待期期間、難民支援に関わるしごとをしていたため、ベネズエラ難民のことも耳にする機会は多くありました。実際、彼らの近くにいても今は何をしていいのか、何ができるのかはわからりません。

 

街を歩いていると時々ベネズエラ料理を目にする。ベネズエラからの移民も多いそうだ。写真はベネズエラ料理のアレパ。

 

明日には任地に向かうことになりますが、任地での活動ではマチュピチュ歴史保護区に住むアンデスの原住民の方を対象に活動する機会も多いです。
地方の住民は未だに首都と比べると教育機会も均等ではなく、平均収入も都市部よりも低くなる傾向があるそうです。(語学の先生曰く、地方の一握りの優秀な生徒に対しては高等教育を受けるための奨学金制度もあるそうです。)

現地での活動では、彼らの話をよく聞き、彼らと同じ目線に立って活動を進めていくように努めたいと考えています。そして、協力隊員としての活動とは異なりますが、自分が1年間日本で難民支援に関わったということもあって、なんらかの形でベネズエラ難民の方々への支援にも関われないかと夢想しています。

 

かつてJICAの理事長も務めたこともある、日本人初の国連難民高等弁務官 緒方貞子さんは、「”人道支援”と”開発援助”の差はスピードだ」とおっしゃったそうです。
リマで無力感にさいなまれたのは、今この瞬間も貧困にあえぎ、その日の生活を担保されていない人々に何もできないからです。彼らに”いち早く”大量の物資を届けるようなことは、今できません。
しかし、これから2年間任地クスコでは、”少し時間をかけて”彼らが現状から向上するためのお手伝いをさせてもらいます。
この2年間ペルーで目の前のことに全力で取り組むと同時に、自分の先の人生で迅速に命の危機に瀕する人々に支援を届ける力も得たいと思います。
人道支援”と”開発援助”どちらも国際協力において必要不可欠ですが、この2つを二項対立で独立した支援として考えるのではなく、それらの2つをシームレスに実施できるような支援ができる人間になりたい。

 

Miraflores地区の海岸。見えるのは太平洋。そのずっと先には日本があって、世界はつながっていることを改めて認識させられる。


日本人が平和を考える日に南米ペルーで、”自分が世界平和にどう貢献したいか”を考える。

冷静な頭と熱いハートを持って、これからのペルーでの2年間もその先も懸命にいきたい。