マチュ・ピチュ-アルトマヨの森奮闘記

青年海外協力隊2022年7次隊として、林業・森林保全分野でペルーに派遣されました。クスコ州のマチュピチュ歴史保護区で森林保全活動をしていましたが、情勢悪化に伴いサン・マルティン州のアルトマヨの森保護区に任地変更となりました。自分が将来過去を振り返るための備忘録も兼ねて、日々の活動をボチボチ綴っていこうと思ってます。時々暑苦しい文章になるかもしれませんので、ご承知おきください。

旅行記 Capítulo 3 ~ボスニアヘルツェゴビナ・サラエボ&モスタル~

世界的なパンデミックの煽りを受け、日本を発てずして2年と4ヵ月。日本で生きるためには働かなければならず、また自分の将来に対しての漠然とした不安もありながら、トライしてはエラーの繰り返し。大きな挫折感を味わうことも幾度かありました。

 

しかし、浮沈の激しいこの2年4ヵ月での大きなターニングポイントは、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)の難民支援活動のための資金調達をするファンドレイザーとしての仕事を始めてからだったように思います。

私自身は社会人時代から慣れ親しんだ愛知県に住み、中部地方の管轄にて、愛知県、静岡県岐阜県三重県、長野県の法人や個人の"難民を助けたい気持ち"のある方から支援を賜る活動をしていました。多くの心温まる出会いがあり、自分自身の優しさがどんどんアップデートされているようでした。かつて中村哲さん(私の出身大学のOBで、私が最も尊敬する方)の著書(https://www.amazon.co.jp/dp/product/4480420533/ref=as_li_tf_tl?camp=247&creative=1211&creativeASIN=4480420533&ie=UTF8&linkCode=as2&tag=bookmeter_book_middle_detail_ios-22)の中で、3人の遭難者の喩えを用いて、「助けていると思っている側が、実は逆に助けられている側からも恩恵を得ている」ことを書かれていましたが、仕事を通してこの感覚をひしひしと感じる毎日でした。

 

では、なぜ私はこうも世界に目を向け、日本にとどまって尚、国際貢献をしたかったのか。

 

それは、大学院時代に2度訪れた国ボスニア・ヘルツェゴヴィナで目にしたものが私の脳裏に焼き付いて離れることがないからです。

首都サラエボの丘から見下ろした市街地。私が国際貢献の道を志した原風景。



ボスニア・ヘルツェゴヴィナ”という国名を聞いて、パッとわかる方はそう多くないかもしれません。ただ、サッカーが好きな人だとハリルホジッチ監督やオシム監督を連想するかもしれません。
ユーゴスラビアの構成国の1つであり、独立時に民族間での紛争が起こった国でもあります。

 

以前投稿したアルバニアと同じバルカン半島に位置する。ボスニア・ヘルツェゴヴィナ連邦とスルプスカ共和国の二つの構成体からなる連邦国家


初めてこの国を訪れたのは、2017年の3月。街は精錬されており、旧市街はイスラム教・東方正教カトリックユダヤ教の重要な建造物が並んでおり古今東西の文化の衝突点であることを改めて感じました。この街で第一次世界大戦が勃発し、そしてほんの20数年前までユーゴスラビア紛争の激戦地だったのです。きれいな市街地を歩いただけだと過去の史実と目にする風景に乖離があり、少し戸惑うとともに、その整った歴史ある街に惹かれていました。

 

旧市街のバシュチャルシヤ。写真のシンボルのセビリは水汲み場になっており、この水を飲んだものはまたここを訪れるといわれている。実際にこの後もう一度サラエボを訪れた。

 

 

街歩きが好きな私はバックパック1つを背負って、街を探索し、そして冒頭の写真の景色が見える丘を訪れました。はじめは目に映る市街地の美しさに心奪われ、ボーっと眺めていただけでしたが、やがて目前に見える白い物が気になり丘を少し下って確かめてみることにしました。
それはお墓でした。墓石には死没した年齢が1993年と書かれていました。私が生まれた年、1993年はサラエボ包囲によって、市街地が激戦地となり多くの罪のない人々が命を落としていたのです。私が生まれ落ちたその瞬間にも、ここでは多くの人が亡くなっていたという事実を突きつけられました。
さらにその方の墓石には1970年生まれであることが書かれていました。23歳没。この旅をしていた私は奇しくも同じ23歳でした。同じ23歳でも方や気楽に旅をしている一方で、不条理にも罪のない人々が世界中で命を落としているという、テレビや新聞を通して連日報道されているような至極当然なことを、ここサラエボで痛感させられました。
この時は、”自分は何もこの問題にアプローチすることができない”という無力感と、”この世界の不条理に対して何かアクションを起こさなければならない”というやや使命感という矛盾する感情でもやもやしながら旅を続けました。

 

サラエボ・トンネル博物館。サラエボ包囲の際、物資や怪我人を運ぶために使用されていたトンネルの一部が公開されている。




この後訪れた、モスタルという世界遺産の街もまた紛争に翻弄された町でした。
街のシンボルであるスターリ・モストは紛争中の1993年に破壊されました。
もともとこの橋は東側のイスラム系住民の居住区と西側のクロアチア系住民の居住区をつなぐ物理的かつ心理的な架け橋でした。その橋が壊されたという史実が意味するものは、”民族や宗教による対立”です。

 

平和のシンボルのスターリ・モスト。現在の橋は2004年に再建されたもの。



 

断わっておきたいのですが、私にはボシュニャク人の友人も、クロアチア人の友人も、セルビア人の友人もいますしその全員のことが友人として大好きです。当事者でない日本人の私はこの紛争の背景にある対立構造が生じた文脈を正しく理解できているとは思っていませんし、どの国・民族が良い悪いという考えを排除し政治的には中立のスタンスを取ることを常に意識しています。ゆえに、こういった対立構造を是正することはおそらく私1人でどうにかなることではないですし、対立に至った文脈を客観的に理解した上となると尚更困難であると感じています。
ただ”民族や宗教の違いで生じる不平等に対するアプローチ”は小さなところからでも始められるのではないだろうか、とモスタルの街を歩きながら考えていました。この考えに至った瞬間、サラエボから引きずっていたもやもやを少し飲み込めたように思いました。

 

モスタルの中心地から離れたところにある建物。銃痕がハッキリと残っており、紛争の爪痕を感じる。



 

そして、そこから1年もたたずして同年12月、再度サラエボを訪れました。
この時には就活を終え、株式会社ニトリから内定をいただいていました。

 

サラエボ再訪。旧市街地を歩いていると名産品の銅容器を打つ音が聞こえてくる。




前回サラエボモスタルを訪れた際に”民族や宗教の違いで生じる不平等に対するアプローチ”を行っていきたいと考えたものの、大学・大学院では森林科学という学問を学んでおり、6年間専門知識だけを詰め込んできた私はかなり頭でっかちになっているのでは、と考えた私はまずは民間企業にて経験を詰むことを選択しました。
そして、せっかく得た森林科学分野の専門知識も活かしたいと考えた私は「森林資源を活用して、被差別者や難民・国内避難民が雇用を得て安定的に収入を獲得しながら、持続可能な森林経営を行うこと」を実現したいと漠然と考えるようになっていました。

しかし、そのためにはバリューチェーンの知識が足りないと感じ、当時、”製造・物流・小売業”というビジネスモデルを確立し、成長企業であったニトリへの入社を決意しました。

 

紛争時も営業していたホリデイインホテル。当時はジャーナリストが宿泊していた。手前の通りはスナイパー通りと呼ばれ、老若男女問わず罪のない市民が狙撃された。



 

2回目のサラエボ訪問は自分にとって、自分の信念とこれからすべきことを再確認するためでした。
ボスニア・ヘルツェゴヴィナへの2度の渡航ももちろんですし、他の訪れた国々で感じたこと、ニトリで学ばせていただいたこと、派遣待機期間の挫折と成功体験、様々な経験を通して、サラエボで感じたもやもやが言語化され、やがて自分がしたいことが少しずつではありますが明瞭になってきたように思います。
ペルーでの2年間の経験は、さらに自分の目標の実現に1歩近づくための過程でもあり、またペルーの現地の人々と共に考え問題を解消するチャレンジでもあります。
(このあたりの自分の感情にスポットをあてた話を、先日7/22に横浜のNGO団体野毛坂グローカルhttps://nogezaka-glocal.com/のオンラインイベントで少しお話させていただきました。ご興味あれば以下リンクからご覧ください。)

青年海外協力隊(JICA海外協力隊)出発前の人に聞こう! - YouTube

 


おそらく大変なこともたくさんあって、困難にも直面するでしょう。
ただ、このボスニア・ヘルツェゴヴィナで感じたことを思い出し、自分の信念に基づいてやるべきことを遂行していきたいと思います。
今回の旅行記は私にとっては、備忘録であり、また決意表明でもあるのです。