730分の1日目
2022年8月1日。とうとう念願のペルー派遣が叶いました。
訓練所を退所してから2年4ヶ月、合格通知が届いてからだと3年の月日が経過しました。
長い間待ち続けたペルーへの道は今日開けました。
今日ここに来るまでに、両親や姉夫婦、親戚、友人、同僚、そして大切な彼女に支えられ、そしてたくさんの励ましをもらいました。
「”応援される人”になりなさい」と同僚から言われたことがあります。
人道支援をするNPO法人に入職してすぐのことでした。
その日から、仕事でもプライベートでも応援される人になるためのふるまいを意識したことを覚えています。
その言葉をいただいてから1年と数か月。
さて、私はちゃんと”応援される人”になれたでしょうか?
7月30日。住んでいる豊川市の家を出発し、豊橋駅まで彼女の母に送り届けてもらい、さらに豊橋駅では同僚に見送っていただきました。いろんな方から激励のメッセージもいただきました。
7月31日。一泊した品川のホテルに駒ケ根訓練所の同期2人が迎えに来てくれて、羽田空港まで荷物を分担して運んでくれました。
そして彼女は一緒に過ごした豊川の家から空港までずっとついてきてくれて、同期2人と一緒に私を笑顔で送り出してくれました。
そして16時半。私が29年過ごした大好きな日本を離れました。”応援してくれたすべての人”に感謝です。
そして現地時間の8月1日早朝4時45分に、ようやくペルーに到着しました。
ここに到達するまでたくさん回り道もしたし、たくさん失敗もしてものすごく長い旅路だったように思います。
今日からは2週間ほどは首都リマのホテルに滞在して、オリエンテーションや語学レッスンを受けたのち、任地クスコに赴任します。
ホテルにチェックインした後、彼女が出発前に持たせてくれた贈り物をあけてみました。中には二人の思い出の詰まったアルバムと手紙が入っていました。
胸から熱い想いがこみ上げてきました。
きっと2年間寂しい想いもさせてしまうけど、それでもこの派遣が叶ったことを一緒に喜んでくれて応援してくれる彼女には心から感謝するとともに、この2年間を悔いの残らないすべてできることはやり切ったと思えるものにしたいと決意を新たにしました。
ここに来るまで、豊川で一緒に暮らして、しんどい時も横で支えてくれたこと。本当に感謝しています。本当にありがとう。
まだまだ”応援される人”になるは、不足しているところもたくさんありますし、先人から学びを得て努力しなければなりません。
ですが、今回のペルーへの渡航で私の周りにはたくさんの”応援してくれる人”がいることに気づけました。
”応援してくれる人”がいるから、私は前を向き続けてがむしゃらにペルーでの2年間を駆け抜けます。
今日がその730分の1日目。
旅行記 Capítulo 3 ~ボスニアヘルツェゴビナ・サラエボ&モスタル~
世界的なパンデミックの煽りを受け、日本を発てずして2年と4ヵ月。日本で生きるためには働かなければならず、また自分の将来に対しての漠然とした不安もありながら、トライしてはエラーの繰り返し。大きな挫折感を味わうことも幾度かありました。
しかし、浮沈の激しいこの2年4ヵ月での大きなターニングポイントは、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)の難民支援活動のための資金調達をするファンドレイザーとしての仕事を始めてからだったように思います。
私自身は社会人時代から慣れ親しんだ愛知県に住み、中部地方の管轄にて、愛知県、静岡県、岐阜県、三重県、長野県の法人や個人の"難民を助けたい気持ち"のある方から支援を賜る活動をしていました。多くの心温まる出会いがあり、自分自身の優しさがどんどんアップデートされているようでした。かつて中村哲さん(私の出身大学のOBで、私が最も尊敬する方)の著書(https://www.amazon.co.jp/dp/product/4480420533/ref=as_li_tf_tl?camp=247&creative=1211&creativeASIN=4480420533&ie=UTF8&linkCode=as2&tag=bookmeter_book_middle_detail_ios-22)の中で、3人の遭難者の喩えを用いて、「助けていると思っている側が、実は逆に助けられている側からも恩恵を得ている」ことを書かれていましたが、仕事を通してこの感覚をひしひしと感じる毎日でした。
では、なぜ私はこうも世界に目を向け、日本にとどまって尚、国際貢献をしたかったのか。
それは、大学院時代に2度訪れた国ボスニア・ヘルツェゴヴィナで目にしたものが私の脳裏に焼き付いて離れることがないからです。
”ボスニア・ヘルツェゴヴィナ”という国名を聞いて、パッとわかる方はそう多くないかもしれません。ただ、サッカーが好きな人だとハリルホジッチ監督やオシム監督を連想するかもしれません。
旧ユーゴスラビアの構成国の1つであり、独立時に民族間での紛争が起こった国でもあります。
初めてこの国を訪れたのは、2017年の3月。街は精錬されており、旧市街はイスラム教・東方正教・カトリック・ユダヤ教の重要な建造物が並んでおり古今東西の文化の衝突点であることを改めて感じました。この街で第一次世界大戦が勃発し、そしてほんの20数年前までユーゴスラビア紛争の激戦地だったのです。きれいな市街地を歩いただけだと過去の史実と目にする風景に乖離があり、少し戸惑うとともに、その整った歴史ある街に惹かれていました。
街歩きが好きな私はバックパック1つを背負って、街を探索し、そして冒頭の写真の景色が見える丘を訪れました。はじめは目に映る市街地の美しさに心奪われ、ボーっと眺めていただけでしたが、やがて目前に見える白い物が気になり丘を少し下って確かめてみることにしました。
それはお墓でした。墓石には死没した年齢が1993年と書かれていました。私が生まれた年、1993年はサラエボ包囲によって、市街地が激戦地となり多くの罪のない人々が命を落としていたのです。私が生まれ落ちたその瞬間にも、ここでは多くの人が亡くなっていたという事実を突きつけられました。
さらにその方の墓石には1970年生まれであることが書かれていました。23歳没。この旅をしていた私は奇しくも同じ23歳でした。同じ23歳でも方や気楽に旅をしている一方で、不条理にも罪のない人々が世界中で命を落としているという、テレビや新聞を通して連日報道されているような至極当然なことを、ここサラエボで痛感させられました。
この時は、”自分は何もこの問題にアプローチすることができない”という無力感と、”この世界の不条理に対して何かアクションを起こさなければならない”というやや使命感という矛盾する感情でもやもやしながら旅を続けました。
この後訪れた、モスタルという世界遺産の街もまた紛争に翻弄された町でした。
街のシンボルであるスターリ・モストは紛争中の1993年に破壊されました。
もともとこの橋は東側のイスラム系住民の居住区と西側のクロアチア系住民の居住区をつなぐ物理的かつ心理的な架け橋でした。その橋が壊されたという史実が意味するものは、”民族や宗教による対立”です。
断わっておきたいのですが、私にはボシュニャク人の友人も、クロアチア人の友人も、セルビア人の友人もいますしその全員のことが友人として大好きです。当事者でない日本人の私はこの紛争の背景にある対立構造が生じた文脈を正しく理解できているとは思っていませんし、どの国・民族が良い悪いという考えを排除し政治的には中立のスタンスを取ることを常に意識しています。ゆえに、こういった対立構造を是正することはおそらく私1人でどうにかなることではないですし、対立に至った文脈を客観的に理解した上となると尚更困難であると感じています。
ただ”民族や宗教の違いで生じる不平等に対するアプローチ”は小さなところからでも始められるのではないだろうか、とモスタルの街を歩きながら考えていました。この考えに至った瞬間、サラエボから引きずっていたもやもやを少し飲み込めたように思いました。
そして、そこから1年もたたずして同年12月、再度サラエボを訪れました。
この時には就活を終え、株式会社ニトリから内定をいただいていました。
前回サラエボ・モスタルを訪れた際に”民族や宗教の違いで生じる不平等に対するアプローチ”を行っていきたいと考えたものの、大学・大学院では森林科学という学問を学んでおり、6年間専門知識だけを詰め込んできた私はかなり頭でっかちになっているのでは、と考えた私はまずは民間企業にて経験を詰むことを選択しました。
そして、せっかく得た森林科学分野の専門知識も活かしたいと考えた私は「森林資源を活用して、被差別者や難民・国内避難民が雇用を得て安定的に収入を獲得しながら、持続可能な森林経営を行うこと」を実現したいと漠然と考えるようになっていました。
しかし、そのためにはバリューチェーンの知識が足りないと感じ、当時、”製造・物流・小売業”というビジネスモデルを確立し、成長企業であったニトリへの入社を決意しました。
2回目のサラエボ訪問は自分にとって、自分の信念とこれからすべきことを再確認するためでした。
ボスニア・ヘルツェゴヴィナへの2度の渡航ももちろんですし、他の訪れた国々で感じたこと、ニトリで学ばせていただいたこと、派遣待機期間の挫折と成功体験、様々な経験を通して、サラエボで感じたもやもやが言語化され、やがて自分がしたいことが少しずつではありますが明瞭になってきたように思います。
ペルーでの2年間の経験は、さらに自分の目標の実現に1歩近づくための過程でもあり、またペルーの現地の人々と共に考え問題を解消するチャレンジでもあります。
(このあたりの自分の感情にスポットをあてた話を、先日7/22に横浜のNGO団体野毛坂グローカル:https://nogezaka-glocal.com/のオンラインイベントで少しお話させていただきました。ご興味あれば以下リンクからご覧ください。)
青年海外協力隊(JICA海外協力隊)出発前の人に聞こう! - YouTube
おそらく大変なこともたくさんあって、困難にも直面するでしょう。
ただ、このボスニア・ヘルツェゴヴィナで感じたことを思い出し、自分の信念に基づいてやるべきことを遂行していきたいと思います。
今回の旅行記は私にとっては、備忘録であり、また決意表明でもあるのです。
Re: スタート
2年と4ヵ月。
時間がずっと止まっていました。
しかし、今もう一度時計の針が進もうとしています。
コロナウイルス流行の煽りを受けて派遣が延期されてから長い月日が流れました。
2020年の3月に駒ケ根訓練所での派遣前訓練を修了し、ようやく”国際協力のスタートライン”に立てたように思ったあの日から日本でいろんな葛藤にぶつかりながら、そして周りの方々に支えられながら過ごしておりました。
そしてようやく来週7/31にペルーに渡航します。
派遣待機期間に入った直後は、”自分はどこに向かって進めばよいのか”、”派遣は再開されるのか”、”自分の将来はどうなってしまうのか”、いろんな不安に押しつぶされそうになりながら、地方創生にそしてその後ドイツ系の貿易会社で輸入業に関わっていました。しかしどこにいても、何をしていても、「海外で国際貢献をしたい」という想いを満たすことはできず、モチベーションは下がってしまっていました。
(なぜ”海外での国際貢献にこだわるのか”はこちらの記事
旅行記 Capítulo 3 ~ボスニアヘルツェゴビナ・サラエボ&モスタル~ - マチュ・ピチュ奮闘記を是非読んでみてください!)
そんな中で2021年6月からは、国連UNHCR協会というNPO法人にてファンドレイザーとして、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)の難民支援活動を支えるための資金調達に従事しておりました。
もともとこちらの団体の支援者だったということもあり、さらに日本国内に居ながら「世界の難民の方々を支えられる」ので、自分自身の想いも満たすことができる、と思っての決断でした。
東海地方のいろんな場所(愛知県、静岡県、岐阜県、三重県、長野県)で、いろんな方に難民の窮状を訴え、支援を賜りました。この活動の中でいろんな方々とお話する機会があり、話をゆっくり聞いてくださる方には時に自分自身の現状や国際協力への強い想いについてもお話させていただきました。皆さん、私に温かい言葉をかけてくださり、そして応援してくださいました。
2021年8月にはアフガニスタンにおけるタリバン政権の樹立、2022年2月にはウクライナ危機という全世界にインパクトを与える事態が生じた中で、世間の方々においても難民問題に注目する方々も増え、そしてニュースで難民問題が取り上げられる機会も多くなりました。難民の方々の個々人がそれぞれ困難な状況にありながらも力強く生き抜く姿を目にし、その生きる力に心が打たれました。
私自身は「世界の難民の方々を支えられる」という想いで始めたものの、実のところ、逆に私自身も支援者の方々や、難民の方々に支えられているということに気づかされました。この気づきは、これからペルーでの協力隊活動、そしてその先にも活きるものだと確信しています。
支援は上からであってはならない、常に同じ目線で活動をしなければならない。
このスタンスを忘れずに、活動していこうと決意しています。
また、この待期期間は自分の周りの人々にも支えられました。
家族も友人も同僚も、私がしんどい時は励まし、そして私のことを応援してくれていました。
これからの2年間の協力隊活動で精一杯自分のできることを実行することで、この恩を返していかなければなりません。
この投稿にて、私のことを応援してくださった皆さんへの最大限の感謝を伝えられればと思います。本当にありがとうございました!
今日のこの投稿を持ちまして、私のJICA海外協力隊記 ”マチュ・ピチュ奮闘記” 再開です!ペルーでも可能な限り投稿していきたいと思います!乞うご期乞うご期待!
¡Nos vemos!
おわりはじまり
3/16にJICA駒ヶ根訓練所における70日間の派遣前訓練が
122名の同期と寝食を共にし、各人各々の言語を学び、地域実践
まずは訓練の講座の大半を占めていた言語。12月まで仕
日々の生活でもしんどいも多々ありました。122人もいるとどう
(こんなことこのブログで書くべきではないのかも知れませんが、
生活班のリーダーも正直に言うと、私には荷が重かった。これまで
最終日前日、班のメンバーで最後の飲み会に行きました。帰ってき
ここだけでは書ききれないほど色んな印象的な出来事がありました
派遣前訓練は終わりました。しかし私の国際協力への道はまだ始ま
おわりはじまりです。
最後に70日間一緒に過ごした訓練所のスタッフと、122名の同
みんなと一緒に成長した70日間は私の宝物です!
この駒ヶ根訓練所での経験が、「いつか世界を変える力になる」
訓練所生活も残すところ2週間
訓練所での生活も残すところ2週間となりました。
今回は訓練所における語学の授業について振り返っていきたいと思います。
駒ケ根訓練所では、主に大洋州、西アフリカ、中央アジア、南西アジア、そして中南米に派遣される候補生が70日間共同生活をしながら訓練を行っています(我々2019年3次隊の場合は総計122人)。講義の約6割が語学クラスで、これは中学校3年間分の授業時間に相当するそうです。私の場合はペルーに派遣されるため、スペイン語を学習しています。
私はスペイン語初習者であり、12月まで仕事をしていたこともあって訓練所に来た時点での実質のスペイン語学習期間は2か月ほどでした。入学時にクラス振り分けテストがあり、私は自分のレベルとはかけ離れて高いレベルのクラスに振り分けられました。
初めから日本語を使わずスペイン語だけで進んでいく授業に戸惑い、自分がクラス内では落第(ほかのレベルのクラスへ移動)候補であると感じていました。
現状を把握したうえで、毎日の授業に食らいついていくために毎日必死に勉強しました。はじめは何もわからないスペイン語に戸惑いあまり好きではなかったスペイン語ですが、できるようになっている感じるにつれてどんどん楽しくなってきました。
今では授業で何を話しているかわからない場面も少なくなり、自分自身の話したいことも伝えられるようになってきたと感じています。
応募を考えられている方の中には、語学面で不安を感じる人も多いと聞きます。
もちろん語学をマスターするのは非常に難しいことであり、初習言語となれば尚更です。しかし、猛勉強しできるようになっている実感を得る喜びは何物にも代えがたいです。なんでもポジティブにとらえて真面目に取り組めば、少なくとも訓練所での語学は楽しいものであると思います。
ということで、ここ最近の報告も。
ここ最近の話でいうと、まずは特別行事です。東京の赤坂に行きました。一生で一度しかできないであろう経験で、これからも忘れることはないでしょう。これ以上はコンプライアンスの観点から語りませんが、Googleで検索してみるとどんな行事なのか見当がつくと思います。
あとは協力活動手法という講座で私がこれから2年間の活動において技術的なアドバイスをしていただける技術専門委員の方の講座がありました。
なんと奇遇にも、林業・森林保全分野の技術専門委員の方はなんと私の出身大学院の同じ森林科学専攻の大先輩であり、さらに私の修論の指導教官の研究室時代の先輩だったそうです。講義では、海外の森林保全のための施策や国立公園でのファシリテーション技術に関して学びました。ペルーでの活動はもちろん、帰国後のキャリアについても考える良い機会となりました。
そして、今日環境教育の同期隊員3人と一緒に自主講座を開催しました!
「任地で活かせる環境ワークショップ」と題して、環境について考えるきっかけとなるゲームを3つ計画しました。
参加者は我々を含めて候補者11人と見学に来ていた東京農大の学生4名でした!
最後の振り返りで、それぞれが今回のワークを経て感じたことを踏まえてこれから環境を守るために行動レベルでどんなことを実践していくか宣言してもらいました。
何らかの気づきを得てもらえたのではと少し満足しています。
ワークショップを実施する側が、環境を守るために○○したほうがいいと伝えるのではなく、それぞれで考えて最後に共有することによって気づきが深くなるんだなと感じた講座でした。
こんな感じでしんどいながらも楽しんでいる訓練所生活ですが、終わりが見えてくると寂しくなるものです。コロナウイルスの流行で派遣が延期されないかという不安もありますが、今はともかくスペイン語の最終試験、そして最後の修了式に向けて突っ走るのみです!
これからは、週に一回くらいきちんと記事を書いて自分の考えをアウトプットしていきたいなと思いつつ今日はこの辺で。
¡Nos vemos!
Estoy un poco cansado pero contento por la vida diaria en KTC.
ここ最近、中間試験があったり、Taller (スペイン語でワーク
まずは、2/7に中間試験が終わりました!
テストは聴解、筆記、口頭の3つに分かれており、
点過去に少し苦手意識がありますが、
また、2/17〜2/19で私たちのクラスでTallerが行われ
日常生活に役に立つ知識から、問題提起など、
拙いスペイン語ではありましたが、
100年先200年先も私たちの祖先が他の動植物と共生していく
訓練所生活も残すところ3週間。
まだまだ未熟なスペイン語ですが、
また細々と更新していきます。今日はこの辺で。
¡Nos vemos!
旅行記 Capítulo 2 ~アルバニア・ティラナ~
アルバニアのことを知っているという人はかなり稀かなと思います。
馴染みのない国なのも当然なのかもしれません。
この国は1990年ごろまで事実上鎖国状態の国でした。
社会主義国の中でも、独自路線を行っていたこの国はヨーロッパの北朝鮮とも呼ばれていました。
日本人の99.5%が訪れない国ともいわれています。
市場経済に移行後はネズミ講が流行していましたが、ユーゴスラビア紛争が下火になってきた1997年に武器密輸ビジネスが破綻したことを端に発しネズミ講も破綻しました。結果として全国民の3分の1が全財産を失うという大事件となりました。そしてアルバニア暴動という内戦が生じたのです。この紛争により多くの難民が発生し、またこれがコソボ紛争(旅行記コソボ編にてまた投稿します)にも繋がったのです。
そんな悲劇的な事件があった国に私が行きたかった理由は、内紛が生じた国がそしてその国の人々がどのように復興していくのかを見たかったからです(もう一つ理由はありますが、後述します)。もちろん未だ豊かな国とは言えないかもしれませんが、それでも治安も安定してきて観光客の数も増えてきているこの国の今を見たいと強く思い、2016年の夏に南バルカン半島(コソボとマケドニアはまた後日投稿します!)を巡る旅をしました。
この旅はアルバニアinだったので、トルコ航空イスタンブール経由でティラナ・マザーテレサ空港に降り立ちました。え、なんでマザーテレサ?と思った方がほとんどだと思います。実は、マザーテレサはアルバニア人なのです(生まれたのは北マケドニアのスコピエです!スコピエも訪れたので、後日また投稿します!)。市街地には、マザーテレサの名を冠する広場もあるくらい、アルバニア人はマザーテレサを尊敬しています!また空港から市街地まではバスで30分くらいなのですが、バスはものすごくボロボロで年季が入っていて、雨が降って少し雨漏りもしていました、、、。
ティラナ中心街はスカンデルベグ広場を中心にモスクや国立博物館など、観光スポットが固まっているため非常に観光しやすい街だと感じました。規模感が大きい街ではありませんが、イスラム教の国特有の人の優しさや朝方にアザーンが聞こえてきて目が覚めるのがとても心地よく何となく居ついてしまいたい雰囲気でした!その後、北マケドニア(当時は旧ユーゴスラビアマケドニア共和国)のオフリドへ向かうバスを予約してしまっていたため留まることは一度は断念しましたが、コソボのプリシュティナに行った後に再度ティラナに戻ってきてこの街が持つ独特の雰囲気を堪能しました。
かつて共産主義自体の1967年に当時の大統領によって無神国家が宣言されたものの、のちに信仰の自由が認められ宗教施設も多くあります。アルバニアはかつてオスマン帝国(今のトルコ)に支配されていたため、キリスト教からイスラム教へ改宗した人が多いのです。アルバニア人の半数以上がイスラム教徒といわれていることもあり、モスクも多くあります。特にスカンデルベグ広場の横にあるジャーミア・エトヘム・ベウトは実際に無神国家政策の際には閉鎖されていたそうです(外壁の装飾やや内部のフレスコ画などのイスラム美術の文化的な価値は評価されていたため、取り壊されなかったとか・・・)。国立美術館や壁面の絵が特徴的な国立博物館には民族自決主義的な絵画や展示物、さらには社会主義時代のコレクションが多く、言葉がわからなくてもかなり楽しめた印象です。
次に、街歩きをしてみたティラナの印象についてです。やはり他の共産主義国の町と同様に無機質なつくりの建物が多い一方で、中にはカラフルな色に塗装された建物もあり、なんとなくユニークな共産主義の街であると感じました。また人々はかなり穏やかで、あるお土産物屋ではそう高くないお土産を一つ買っただけで、同じくらい値が張りそうなものを一個おまけでくれました。なぜそんなに親切にしてくれるのかと聞くと、「お前は遠いアジアの国から来た仲間だから」みたいなことを言われました。ウズベキスタンやトルコでも同じようなことを言われたことがあり、なんとなくテュルク系民族の国っぽさを感じる出来事でした(アルバニア人はテュルク系民族ではなく、イリュリア人がルーツと考えられています)。あとは、アルバニアといえばやはりアルバニア・マフィアをイメージする人も多いんじゃないかと思います。そういったイメージから怖い国という印象を持つ人も多いかもしれませんが、少なくとも私が街歩きをしているうえで、怖いと感じるような人も出来事もありませんでした。黒いリムジンに乗ったイカツめの顔立ちのお兄さんはいましたが、きっと関係ないはず。食事については、ものすごく素材の味を前面に押し出している印象でした。無駄な味付けはなく、すごくさっぱりしていて食べやすいものが多かったと記憶しています。特に印象的だったのは羊肉のステーキとマスの塩焼きですね!マスはほかのバルカン諸国でもとてもおいしいところが多いです。特に北マケドニアのオフリドにあるオフリド湖でとれるマスなどはかなり有名だそうです。
アルバニアでの旅では一人として日本人に合うことはなかった(アジア系の人すら見なかった)ですが、だからこそ見るものすべてが新鮮で楽しい街歩きでした。未知の国に行ってみたい人にはかなりおススメできます!また、この旅で訪れた他の南バルカン諸国についてもおいおい紹介していきたいと思います。
話は変わりますが、今日スペイン語の中間試験が終わりました!派遣前訓練もとうとう折り返し。旅行記だけでなく、日々の駒ケ根訓練所での生活についてもそろそろ書き綴っていかなければ、と思いつつ今日はこの辺で。
¡Nos vemos!